中島翔哉、個人技を武器に欧州の舞台へ FC東京からポルトガルへ続く“わが道”
新加入・大久保に指摘された球離れの悪さ
ポルティモネンセへの期限付き移籍が決まった中島翔哉 【(C)J.LEAGUE】
Jリーグで成長し、欧州へと旅立つ初の国際移籍に際しての所感としてはごく普通の表現に思える。しかし中島翔哉がここまで歩んできた道のりを振り返り、自らの成長の足跡、そして「変わったところ」と「変わらなかったところ」を確かめたうえで発した決意表明であることをかみしめれば、FC東京からポルティモネンセへと続く“案内板”が見えてくるのではないか。
高萩洋次郎が初めてFC東京に合流した1月26日、沖縄・国頭キャンプ中に行われた大宮アルディージャとの練習試合で、大久保嘉人が中島にパスを要求する大きな声が響き渡った。そのときの様子はスポーツ紙でも「公開説教」との見出しで大きく報じられ、多くの人々が記憶するところとなった。
あえて球離れの悪さを指摘した訳を、大久保は「いいものを持っているのにもったいない」と語っていた。新しい選手が何人も加わり、連係が出来上がっていない状態。互いに意見を言い合ってコンビネーションをつくっていく過程には、むしろ当然のことなのかもしれないが、この件が突出したのは、中島が“ボールを持ったらゴールに一直線”というプレースタイルを確立していたからでもあるだろう。
攻撃のスイッチの役割を果たしていた中島
中島の最初の選択肢はドリブルシュート。時に「球離れが悪い」と指摘されたが、攻撃のスイッチの役割を果たしていた 【(C)J.LEAGUE】
それが許容されていたのは、16年7月に就任した篠田善之監督が率いるFC東京が、中島ありきのハイスパートサッカーを志向していたからだ。当初、指揮官の掲げた戦い方には、4−2−3−1の左サイドハーフにムリキを置き、そこでタメてからのパスで攻撃をつくる狙いがあった。しかしムリキが負傷によって退くと、中島が攻撃の主役に据えられたのだ(その後、ムリキは17年1月に退団)。
降格圏に落ちるかもしれない寸前の状態でチームを引き継いだ篠田監督は、細かい戦術の整備よりも、まず怖気(おじけ)を振り払い、ゴール方向への推進力を増すことから着手せざるをえなかった。何人もの選手がしゃにむにゴールに突進した結果が初戦の2ndステージ第6節、アルビレックス新潟をアウェーで破ったときの決勝点である。そこに攻撃のかたちはなかった。そしてムリキをプレーメーカー的に生かしながら攻撃を組み立てていこうとする途中で、左サイドハーフが中島に替わった。
変幻自在の攻撃で相手を崩していくことが難しかったそのときのFC東京にとり、中島が左サイドからカットイン、半ば強引にでもシュートに持っていく動きは、攻撃のスイッチに等しかった。相手の守備ブロックを前に流動性をつくれないこう着した状態でも、中島が切れ込むことでその場が撹拌(かくはん)され、味方の動きにダイナミズムが生まれる。そのようにして昨シーズン後半のFC東京は得点力を上げていった。
しかし今シーズンの開幕から3試合、中島はベンチスタートだった。チームが第3節のガンバ大阪戦で0−3と大敗し、直後のルヴァンカップでの活躍を評価されて第4節からリーグ戦のメンバーに加わったが、第6節でコンサドーレ札幌に敗れると、続く第7節からは再びベンチに戻った。