好調を支える指揮官・高木琢也の手腕 J2・J3漫遊記 V・ファーレン長崎<前篇>
「反省することばかり」だった横浜FC監督時代
長崎のサポーターにあいさつする高木監督。自分のスタイルを模索する日々は今も続く 【宇都宮徹壱】
「現役を終えたころは、漠然とサッカーの仕事に携わりたいというのはありましたけれど、絶対に指導者にという感じではなかったですね。(05年にS級ライセンスを取得したが)すぐに仕事にありつけるという話でもないですし。ですので、解説の仕事をしながら2年間だけ日本大学のコーチをやっていました。ただ、解説の仕事は本当に勉強になりましたね。映像だけでなく、海外の試合やトレーニングも現地で見せてもらえましたから」
そして06年、高木は満を持して横浜FCのコーチとなる。おそらく当人としては、ここでしっかり現場の修行をして、いずれは監督へという思惑もあったのだろう。ところが開幕戦で横浜FCは、この年にJFLから昇格したばかりの愛媛にアウェーで0−1と敗れてしまう。この結果もあり、就任2年目の足達勇輔監督は解任され、コーチになったばかりの高木がいきなり監督に昇格する。
本人はまったく「その気がなかった」というが、渋々オファーを受諾。すると初采配となった第2節のサガン鳥栖戦から、15試合無敗というクラブ記録を打ち立て、終わってみればJ2初優勝とJ1昇格を決めてしまった。もっとも当人にとって、昇格した06年と1年で降格した07年は、苦い思い出でしかなかったようだ。
「06年は確かに昇格できましたけれど、自分としては過剰な評価だったと思います。昇格できた理由ですか? それまでの積み重ねがあったのと、試合を重ねるごとに自分たちのスタイルというか、リズムを作れたこと。あのシーズンは、とりあえず1点を取ったら、あとは守り切るというスタイルを作ることができました。(翌07年の)J1では、(第3節で)川崎フロンターレに0−6で負けたのが、一番印象に残っていますね。今となっては反省することばかりですが、逆にいろんなことを勉強させてもらった時期だったと思います」
結局、シーズン途中の8月27日に解任。その後、東京ヴェルディ(09年)、ロアッソ熊本(10年〜12年)で指揮を執った。この4シーズンについて、高木自身は「模索する日々でした」と語る。指導者としての自分のスタイルを模索する一方、熊本時代には「戦力不足をカバーするには走るしかない」という確信に至る。こうした模索する日々もまた、その後の長崎での指導力を下支えするものとなっていった。
指揮官が考える「理想のチーム像」とは?
高木体制になって二度、プレーオフに進出。15年はウェリントンの一発で福岡に敗れた 【宇都宮徹壱】
「(プレーオフの2試合は)手応えは感じていましたよ。押されている時間が長い短いというのはありましたが、試合に勝てた可能性はあったと思います。ただ(プレーオフに出場した)次のシーズンは、どこか自分の中で守りに入った部分はあったかもしれない。プレーオフの舞台を経験したことで、自分の中に変化が出てきたというか……。あとは選手の問題。毎年10人以上の選手が入れ替わる中、チームの経験値を積み重ねていくのは難しいですよね。でも僕が監督である以上、それを言い訳にはしたくない」
横浜FCでも長崎でも、いい意味で期待を裏切る戦績を残しながら、指導者としての模索は今なお続いている。国見高校時代は小嶺忠敏、大阪商業大時代は上田亮三郎、マツダ時代は今西和男、そして日本代表ではハンス・オフトと、さまざまな指導者の薫陶を受けてきた高木。そんな中、自身が強い影響を受けたのが、広島のスチュワート・バクスター、そして浦和レッズのミハイロ・ペトロヴィッチだという(後者については直接指導を受けていないものの、何度か教えを請う機会があったそうだ)。その上で、自身が目指す理想のチーム像について挙げたのが、古巣の広島である。
「サンフレッチェ広島は僕も長くお世話になりましたが、あのチームが強い時というのは、お互いがイメージを共有しながらチーム一丸で戦えていたと思うんですね。誰かひとりに頼るのではなく、全員が攻守において頑張ることができて、苦しみも歓びも分かち合うことができるチーム。僕自身、そういうチームで育ってきたこともありますので、強い時の広島というのが僕にとっての理想のモデルと言えます」
今季については「この順位にいられるのは悪いことではないし、ここまでの流れも悪くはない」と語る高木。一方、シーズン途中でクラブ経営の健全化が進む中、「目の前の試合に集中できるようになったのはありがたい」とも。シーズンはまだ道半ばだが、初のJ1昇格に向けた体制は徐々に整いつつある。そこで後編では、新社長に就任した高田明にフォーカスすることにしたい。
<後編につづく。文中敬称略>
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