【陸上】日本中距離界の変革へ 横田真人の提言 “記録偏重主義”から次のステージへ
中距離界の止まった時計を動かした横田
日本中距離界の歴史の針を進めた横田真人。引退した今、思うことを語ってもらった 【スポーツナビ】
かつては1964年東京五輪に出場した森本葵が、1分47秒4の日本記録を樹立して世界に迫った種目でもあるが、その後は世界の進化に取り残された。小野友誠がその記録を更新したのは93年4月。94年6月に1分46秒18まで伸ばしたが、その後はしばらく記録が止まっていた。
同じ中距離種目の1500mも、77年9月に石井隆士が出した3分38秒24を、04年の小林史和が3分37秒42に更新。その後は続くものがおらず、中距離は世界に通用しない種目と見られていた。
そんな中距離界で新たな歴史を作り、09年10月には800mで1分46秒16の日本記録を出し、その流れを14年に川元が出した1分45秒75へと引き継がせたのが横田真人だ。
慶大1年で初制覇した日本選手権は6回優勝し、世界選手権には07年と11年に出場。12年ロンドン五輪には同種目の日本人44年ぶりの出場を果たした。
世界ジュニアで芽生えた五輪への思い
12年ロンドン五輪に出場した横田は「いい経験だった」と語る 【写真:築田純/アフロスポーツ】
「ロンドン五輪の800mの盛り上がりは別格でした。ロンドンは中距離選手にとってみれば聖地だし、そこでデイヴィッド・ルディシャ(ケニア)が世界記録を出しましたし、そこを走れたのはいい経験でした」と横田は話す。
昨年の岩手国体を最後に現役を引退した彼はこう言う。
「高校で陸上をやり始めてからずっと800mでしたが、大学1年で日本選手権に勝った時は、あと2〜3秒も記録を更新しなければ五輪や世界選手権に出られなかったので、その先はイメージしづらい状況でした。それにそれまでは世界を意識するというより『日本選手権で勝てばいい』というような練習だと感じていて……。でも僕の場合は『勝った以上は次の世界へ行きたい』という思いも強くなったので、そのためにはどうしたらいいかを考え、視点を国内ではなく国外に置くことにこだわりました」
日本選手権を初制覇した06年には、北京で開催された世界ジュニアにも出場している。結果は準決勝敗退。優勝したのは現世界記録保持者のルディシャだった。
シニアの日本チャンピオンでも、世界ではジュニアにも歯が立たない現状に悔しさを感じた。さらに、日の丸を背負ってみて、それに満足するのではなく2年後に同じ競技場で開催される五輪に戻って来たいという思いも心の中に芽生えた。
日本陸上界の興隆が世界への機運を高めた
大阪世界陸上を機に陸連の科学委員会と一緒に戦略を立てて練習を行った結果、世界大会に出るレベルまで記録が向上した 【スポーツナビ】
それを原動力にする選手たちの意識も、大阪開催の07年世界選手権へ向けて高まっていた時期だった。
「大阪の世界選手権に開催国枠で出られたことがひとつの転機でした。その時に日本陸上競技連盟の科学委員会の人たちと戦略を立てて取り組み、実際に本番では予選敗退だったのですが自己記録を1秒3くらい更新したんです。それでやり切った気がしていたら終わったのだと思いますが、世界選手権や五輪の参加標準記録を見て『これはまだ縮められる差だな』と感じたので。それが今の日本の中距離の始まりだったと僕は思っています」
これからは選手を育てる側に回るという横田は、コーチと選手だけではなく、日本陸連も含めて同じ絵を共有しなければ、目指す目標を達成できる可能性は低くなると考えている。
「中距離に限って言えば、大阪の世界陸上までは、目指すものに対して取った戦略が実際のトレーニングの場に反映されているかということに少し疑問もありました。それが大阪を機に科学委員会の人たちと一緒にレースを分析し、トレーニングにどう落とし込んでいくかを話していました。それでこの10年でその底上げはできたし、僕が世界選手権と五輪に出て、今は川元が日本記録を更新して五輪へ出たことで、800mも何とか首の皮一枚つながっている感じです」
「だからこの先は、川元がどういう絵を描いて戦っていくかが中距離界にはすごく大事なところ。彼がリスクをとってでも高い目標に向かわなければ、当分今と同じような状況が続くと思います。彼がしっかり上を目指し、短距離の選手たちが『あの4人(リオ五輪の銀メダル獲得メンバー)を倒せばリレーメンバーになってメダリストになれるかもしれない』と思うように、川元を見た選手たちが『彼を倒せば世界にいける』と思うのが自然な形ですね」