公式戦での引退試合は是か非か? カネシゲタカシの『ぷぷぷぷプロ野球』

カネシゲタカシ

選手を人間に戻す祝祭的儀式

9月29日、横浜DeNA・三浦大輔が引退登板。その熱投ぶりに多くのファンが涙した 【写真は共同】

 僕は公式戦での引退試合を以下のように定義付けたいと思います。

“神聖なる公式戦の一片を捧げることで「選手」を「人間」に戻す祝祭的儀式”

 唐突なのは百も承知。しかしこう考えれば、多くのファンや選手が、決しておろそかにしてはいけない真剣勝負へのこだわりを捨て、引退試合を肯定することの理由がわかる気がするのです。これ、安っぽい感動が欲しいとかではなく、どこか本能的にやってるんじゃないかと。

「選手」という言葉には「ある技能を持った選ばれし者」という意味合いがあります。誰が選んだかといえば、狭義には監督や球団であるわけですが……より大げさにいえば“野球の神が選んだ”といえます。

 常人には決してまねできない高い技能を持ったプロ野球選手たちは、神に選ばれし存在として、われわれ一般人とは球場の高いフェンスでもって隔てられます。

 その向こう側は、石のように硬い球が時速165キロで飛び交う超人たちの神聖なる世界。そこで行われる競技が「プロ野球」と呼ばれ、一般大衆はそれに魅了されるわけです。

 そんな超人たちの世界で長らく活躍してきた「選手」を、われわれと同じ「人間」に戻すには、何らかの“祝祭的儀式”が必要です。しかも、その選手の残した功績が偉大であればあるほど盛大に行うべきであり、神の世界と交信するための“供物”も必要となります。

 その儀式が「引退試合」であり、供物こそが「公式戦の一片」なのです。

 ひと振りの打球音、または3カウントのストライクを合図に、彼らは「選手」としての死を迎え、「人間」の姿に戻り、神々の世界を旅立っていきます。それは葬送の儀式でもあり、祝福の儀式でもある。だから人は涙する。

 公式戦での引退試合は、あらゆる理屈を超越した宗教的行事なのです。

相手の立場から知らしめる事実

 引退選手と対戦する、相手選手の立場からも見てみましょう。

 本来「選手」は「選手」と対峙(たいじ)するとき、決して“手ごころ”は加えません。それはお互いが対等で、切磋琢磨すべき立場であるからです。

 しかし「一般の人間」と相対するときはどうでしょう。真剣勝負に値する相手ではないと、何らかの“手ごころ”をくわえるのではないでしょうか。そういう意味では、たとえ引退する選手であっても、最後の最後まで真剣勝負をすることが最高のリスペクトだと言えます。

 ですが、われわれの知る引退試合はそうではありません。

 大げさな空振りをしたり、打ちごろの球を投げたりと、相手選手の側に“手ごころ”が垣間見えます。それらはもちろん「引退選手に有終の美を与えたい」という敬意からくるわけですが、真剣勝負ではないことで、かえってある事実を世界にまざまざと知らしめる結果となります。

 それは「目の前の選手は、もはや選手ではない」という事実。

 やさしいようで、残酷。残酷なようで、じつはやさしい。これもまた引退試合という儀式の本質です。

神聖でいとしい人間のぬくもり

 異論反論認めます。しかし、引退試合を「手ごころだ」「茶番だ」と批判する声よりも寛容に受け入れる声の方が大きいのは、競技としての合理性を超えた“宗教的な合理性”を、多くの人が本能的に理解しているからではないでしょうか。

 当然の話ですが、引退試合のすべての経緯は公式戦の記録として未来永劫(えいごう)残ります。不可思議な出場、不可思議なヒット、不可思議な奪三振……。真剣勝負を追い求める立場から見れば、これらの記録は「みっともないもの」として解釈されるのかもしれません。

 でも、でも、確かに不可思議なんだけど――

 それらの記録から感じ取れる選手たちの喜怒哀楽、そして人間のぬくもりは決して安っぽいものではなく、じつに神聖でいとしいものだと僕は思うのです。

 皆さんはどうでしょうか。

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著者プロフィール

1975年生まれの漫画家・コラムニスト。大阪府出身。『週刊少年ジャンプ』(集英社)にてデビュー。現在は『週刊アサヒ芸能』(徳間書店)等に連載を持つほか、テレビ・ラジオ・トークイベントに出演するなど活動範囲を拡大中。元よしもと芸人。著書・共著は『みんなの あるあるプロ野球』(講談社)、『野球大喜利 ザ・グレート』(徳間書店)、『ベイスたん』(KADOKAWA)など。

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