息子のため国籍変更、母への感謝…識者が選ぶ「五輪の感動エピソード」

矢内由美子

日本人以上に日本人らしく――田中マルクス闘莉王(サッカー)

2003年に日本国籍を取得し、アテネ五輪のU−23日本代表に。その2年後にA代表入り。2010年W杯では守備の要として活躍し、日本の決勝トーナメント進出に大きく貢献した 【写真:ロイター/アフロ】

 2004年8月15日。アテネ五輪に出場したサッカーのU−23日本代表は、U−23イタリア代表と戦っていた。守備ラインの真ん中で声を張り上げて仲間を鼓舞し、身体を張って相手の攻撃を防いでいる男がいた。
 田中マルクス闘莉王。当時、浦和レッズに所属していたDFは、ブラジル・サンパウロ州で日系ブラジル移民三世として生まれ、16歳で来日した。

 日本語も英語も話せない中、ホームシックで毎晩泣きながら過ごしながらサッカーで頭角を現し、01年にプロ入り。J2の水戸ホーリーホックを経て、04年から浦和レッズでプレーしていた。
「日の丸をつけて五輪に出たい」
 日本国籍を取得したのは、水戸時代の03年だった。闘莉王はその日から一人暮らしのアパートで「君が代」の練習を始めた。
 壁の薄いアパートでは声が響く。トレーニングを終えて自室に戻った闘莉王の歌声は、同じアパートに住んでいたチームメイトにも聞こえていた。誰よりも熱い男は、仲間たちから「頑張れよ」と声を掛けられると、国歌の暗記にもトレーニングにもさらに力を入れていった。

 アテネ五輪代表に決まったときの記者会見で、闘莉王が着用していたユニフォームは自分のものではなかった。背番号13。鈴木啓太のユニフォームだ。
 闘莉王は、五輪予選に最多出場し、主将を務めながらも落選した浦和のチームメートを思いやり、「アテネでは啓太の魂と一緒に戦う」と決意していた。日本人以上に義理人情に厚いのが闘莉王だった。

 五輪本番では日本がイタリアと対戦することに奇遇な縁を感じていた。闘莉王の父・隆二さんは日系二世。そして、母・マデルリーさんの先祖はイタリア系移民だったのだ。
 試合は2−3で惜しくも敗戦。結局、日本はグループリーグ3戦全敗でアテネを去ったが、闘莉王の胸の奥には、悔しさと同時に、「次は必ず日本代表として世界に挑む」との決意が芽生えていた。

最高の親孝行――中村真衣(競泳)

シドニー五輪では100m背泳ぎで銀メダルのほか、4×100mメドレーリレーでも銅メダルを獲得 【写真:ロイター/アフロ】

 高校2年生の時に初出場した1996年アトランタ五輪から4年。日本競泳陣のエースとして2000年シドニー五輪に出場した中村真衣(当時大学3年生)。
「以前の真衣とは違います。オリンピックは安心して見ていて下さい」
 シドニー五輪の2カ月前、新潟県長岡市に住む母・文枝さんに中村から手紙が届いた。そこには母への感謝の気持ちと、2度目の五輪に挑む決意がしたためられていた。

 小柄ながら自由形で国体にも出場した母の影響で、4歳から水泳を始めた。
「さっぱりしているところや、控え目な性格は母親似かな? でも私、大学で東京に来て変わったんですよ」
 98年3月に帝京長岡高を卒業して上京し、中央大学に入学。中央大には長所をどんどんアピールする選手が大勢いた。
「自分もそうなりたいと思ったんです」
 中村の武器は、26.5センチという大きな足から繰り出される強力なキックだったが、高校時代は足を大きく見せたくないと、25センチの靴を履いていた。だが大学に入った後は、そういった長所を全面的に受け入れるようになった。

 シドニー五輪では女子100メートル背泳ぎで、自らが持つ日本記録を0秒21縮める1分0秒55の日本新を出し、銀メダルを獲得した。
「シドニーでは今までにない緊張を感じた。プレッシャーに打ち勝っての銀メダルだから満足です」
 女手ひとつで真衣を育てた母・文枝さんはハンカチで目頭を押さえながら、レースを見守っていた。スタンドで再会し、「精いっぱい頑張ったね、お疲れさま」と言った後は2人とも言葉にならなかった。
 東京でひとまわりもふたまわりも成長した一人娘にとって、この銀メダルは最高の親孝行だった。

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著者プロフィール

北海道生まれ。北海道大卒業後にスポーツニッポン新聞社に入社し、五輪、サッカーなどを担当。06年に退社し、以後フリーランスとして活動。Jリーグ浦和レッズオフィシャルメディア『REDS TOMORROW』編集長を務める。近著に『ザック・ジャパンの流儀』(学研新書)

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