ジョコビッチ、偉業達成の裏にあった約束 赤土に描かれた「ハート」の意味

内田暁

勝敗を分けた第2セット

鋼の精神を持つと言われる男も、第1セットでは緊張に襲われたという 【写真:ロイター/アフロ】

 そのジョコビッチが悲願成就を懸けて戦う相手は、世界2位のアンディ・マリー(イギリス)。“イギリス人79年ぶりの全仏オープン優勝”の期待を背負いはするが、「数年前まで、全仏の決勝に出られるとは思ってもみなかった」と言う程にクレーを苦手としたマリーに、プレッシャーはさほどない。

 そのような両者の立場の差が、第1セットの行方を左右しただろうか。最初のゲームこそジョコビッチがブレークするも、いつも以上に攻めの姿勢を鮮明にするマリーが、続く4ゲームを連取した。

「緊張に襲われた」

 後にジョコビッチは、告白する。それは彼の言葉を待つまでもなく、プレーを見れば明らかだった。お互いの出方をうかがうような打ち合いの中で、ジョコビッチのショットがネットをたたく。マリーのサーブに反応すらできず、エースを許す場面も目立った。第1セットは、3−6でマリーの手に。さらには続く第2セットの最初のゲームでも、マリーがブレークポイントをつかむ。

「あそこが、この試合のターニングポイントだったんじゃないかな」

 試合を観戦していたクエルテンも指摘する、決勝戦の分水嶺(ぶんすいれい)――。その最大の危機を3ポイント連取で切り抜けると、そこからのジョコビッチは、フットワークからストロークの精度にいたるまで、第1セットとはまるで別人だった。

「第2セットに入った時に、気持ちを切り替え、やるべきことを整理した。すると心地よくプレーできるようになった」

 第2セットは6−1、第3セットも6−2で奪い返すと、第4セットも瞬く間にゲームカウント5−2に。

「第4セットの5−2までは、完璧と言えるプレーができた」

 自画自賛のプレーで、彼は勝利の目前まで、脇目もふらず駆け抜けてきた。しかしここからの1ゲームでは、再び自身の「ハート」との戦いを強いられる。

「僕だって人間だ。今まで手にしたことのない栄冠と勝利が近付いた時、緊張や興奮……全ての感情に襲われた」

 マリーに2ゲーム連取を許し、ゲームカウント5−4で迎えたサービスゲーム。
 ジョコビッチはポイントを取るたびに、両手を掲げ、観客を煽った。日頃は不敵に映るその姿が、この時ばかりは必死に見える。彼は真に、ファンの力を欲していた。

 最初に手にしたマッチポイントは、ダブルフォルトで逃した。2度目も、自らのミスでふいにする。なんとか手繰り寄せた3度目のマッチポイントは、長い長い打ち合いとなった。バックのクロスのラリー交換から、マリーが先にストレートに切り返す。今度はフォアの打ち合いから、またもマリーが先に仕掛けた。そのたびにジョコビッチは、足を動かし、ボールを打つ直前に「フッ」と息を吐き出しながら、冷静に対応する。

「まるで自分の肉体から精神が離れ、2人の打ち合いを俯瞰(ふかん)して見ているような感覚だった。ボールを動かしながら、アンディのミスを誘おうと思っていた」

 20本の激しい打ち合いの後、ジョコビッチの狙いは、現実となる。乾いた音を立て、ネットをたたくマリーのショット――。ジョコビッチが3−1で初の全仏制覇を果たした。

 その瞬間、「肉体から離れた精神」が再び体に戻るまで、しばらく時間を要しただろうか。ジョコビッチは数歩軽く走った後、全身の力が抜けたように、大の字に倒れ込む。アリーナを震わす大歓声を浴びながら数秒は微動だにしなかったが、思い出したように跳ね起きると、マリーと健闘を称え合った。

 そうしてラケットを手に取り、再びコート中央に戻ってくると、「何を始めるのだろう?」と好奇の目を向けるファンの前で、赤土の上に大きなハートを描き始めたのだ。

史上8人目の生涯グランドスラマーに

ハートマークを描いた後、赤土の上に倒れこんだジョコビッチ 【写真:ロイター/アフロ】

 その様子をクエルテンは、例の人懐っこい笑顔を浮かべながら、客席で拍手を送り見守っていた。
 15年前の2001年――この赤土のコートに2度も大きなハートを描いたのは、クエルテンその人である。1度目は、4回戦でマッチポイントをしのぎ、逆転勝利を手にした時。2度目は、3度目の全仏オープン優勝を決めた時。クエルテンはコート上に巨大なハートを描くと、その中央に寝転んで、世界中のテニスファンの心をつかんだ。

 当時14歳のジョコビッチ少年も、そんなクエルテンに、心を奪われた一人である。「あれは僕にとっても、ローランギャロスの歴史の中で最も思い出深いシーンなんだ」。今大会が開幕する前に、ジョコビッチはクエルテンにたずねた。「だからお願いがあるんだ。もし僕が優勝したら、同じことをしてもいいかな?」と。「もちろん」。クエルテンは快く応じた。

 その時の約束を守るかのように、コート上に描かれるハートを見ながら、クエルテンは思ったという。

「僕の方が、上手に描けていたんじゃないかな? ノバクに言わないとね、もっと練習が必要だよって。全仏で3回優勝するくらいの経験が必要なんだよ!」

 またも顔をくしゃっとさせると、クエルテンは声をあげて笑った。

 少々いびつな巨大なハートは、全仏初優勝の初々しさをも赤土に刻み込む。その中央に寝転ぶと、男子テニス史上8人目の“生涯グランドスラマー”は、重圧から解放された心を、ファンの祝福の拍手と大歓声で満たしていた。

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著者プロフィール

テニス雑誌『スマッシュ』などのメディアに執筆するフリーライター。2006年頃からグランドスラム等の主要大会の取材を始め、08年デルレイビーチ国際選手権での錦織圭ツアー初優勝にも立ち合う。近著に、錦織圭の幼少期からの足跡を綴ったノンフィクション『錦織圭 リターンゲーム』(学研プラス)や、アスリートの肉体及び精神の動きを神経科学(脳科学)の知見から解説する『勝てる脳、負ける脳 一流アスリートの脳内で起きていること』(集英社)がある。京都在住。

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