ジョコビッチ、偉業達成の裏にあった約束 赤土に描かれた「ハート」の意味
勝敗を分けた第2セット
鋼の精神を持つと言われる男も、第1セットでは緊張に襲われたという 【写真:ロイター/アフロ】
そのような両者の立場の差が、第1セットの行方を左右しただろうか。最初のゲームこそジョコビッチがブレークするも、いつも以上に攻めの姿勢を鮮明にするマリーが、続く4ゲームを連取した。
「緊張に襲われた」
後にジョコビッチは、告白する。それは彼の言葉を待つまでもなく、プレーを見れば明らかだった。お互いの出方をうかがうような打ち合いの中で、ジョコビッチのショットがネットをたたく。マリーのサーブに反応すらできず、エースを許す場面も目立った。第1セットは、3−6でマリーの手に。さらには続く第2セットの最初のゲームでも、マリーがブレークポイントをつかむ。
「あそこが、この試合のターニングポイントだったんじゃないかな」
試合を観戦していたクエルテンも指摘する、決勝戦の分水嶺(ぶんすいれい)――。その最大の危機を3ポイント連取で切り抜けると、そこからのジョコビッチは、フットワークからストロークの精度にいたるまで、第1セットとはまるで別人だった。
「第2セットに入った時に、気持ちを切り替え、やるべきことを整理した。すると心地よくプレーできるようになった」
第2セットは6−1、第3セットも6−2で奪い返すと、第4セットも瞬く間にゲームカウント5−2に。
「第4セットの5−2までは、完璧と言えるプレーができた」
自画自賛のプレーで、彼は勝利の目前まで、脇目もふらず駆け抜けてきた。しかしここからの1ゲームでは、再び自身の「ハート」との戦いを強いられる。
「僕だって人間だ。今まで手にしたことのない栄冠と勝利が近付いた時、緊張や興奮……全ての感情に襲われた」
マリーに2ゲーム連取を許し、ゲームカウント5−4で迎えたサービスゲーム。
ジョコビッチはポイントを取るたびに、両手を掲げ、観客を煽った。日頃は不敵に映るその姿が、この時ばかりは必死に見える。彼は真に、ファンの力を欲していた。
最初に手にしたマッチポイントは、ダブルフォルトで逃した。2度目も、自らのミスでふいにする。なんとか手繰り寄せた3度目のマッチポイントは、長い長い打ち合いとなった。バックのクロスのラリー交換から、マリーが先にストレートに切り返す。今度はフォアの打ち合いから、またもマリーが先に仕掛けた。そのたびにジョコビッチは、足を動かし、ボールを打つ直前に「フッ」と息を吐き出しながら、冷静に対応する。
「まるで自分の肉体から精神が離れ、2人の打ち合いを俯瞰(ふかん)して見ているような感覚だった。ボールを動かしながら、アンディのミスを誘おうと思っていた」
20本の激しい打ち合いの後、ジョコビッチの狙いは、現実となる。乾いた音を立て、ネットをたたくマリーのショット――。ジョコビッチが3−1で初の全仏制覇を果たした。
その瞬間、「肉体から離れた精神」が再び体に戻るまで、しばらく時間を要しただろうか。ジョコビッチは数歩軽く走った後、全身の力が抜けたように、大の字に倒れ込む。アリーナを震わす大歓声を浴びながら数秒は微動だにしなかったが、思い出したように跳ね起きると、マリーと健闘を称え合った。
そうしてラケットを手に取り、再びコート中央に戻ってくると、「何を始めるのだろう?」と好奇の目を向けるファンの前で、赤土の上に大きなハートを描き始めたのだ。
史上8人目の生涯グランドスラマーに
ハートマークを描いた後、赤土の上に倒れこんだジョコビッチ 【写真:ロイター/アフロ】
15年前の2001年――この赤土のコートに2度も大きなハートを描いたのは、クエルテンその人である。1度目は、4回戦でマッチポイントをしのぎ、逆転勝利を手にした時。2度目は、3度目の全仏オープン優勝を決めた時。クエルテンはコート上に巨大なハートを描くと、その中央に寝転んで、世界中のテニスファンの心をつかんだ。
当時14歳のジョコビッチ少年も、そんなクエルテンに、心を奪われた一人である。「あれは僕にとっても、ローランギャロスの歴史の中で最も思い出深いシーンなんだ」。今大会が開幕する前に、ジョコビッチはクエルテンにたずねた。「だからお願いがあるんだ。もし僕が優勝したら、同じことをしてもいいかな?」と。「もちろん」。クエルテンは快く応じた。
その時の約束を守るかのように、コート上に描かれるハートを見ながら、クエルテンは思ったという。
「僕の方が、上手に描けていたんじゃないかな? ノバクに言わないとね、もっと練習が必要だよって。全仏で3回優勝するくらいの経験が必要なんだよ!」
またも顔をくしゃっとさせると、クエルテンは声をあげて笑った。
少々いびつな巨大なハートは、全仏初優勝の初々しさをも赤土に刻み込む。その中央に寝転ぶと、男子テニス史上8人目の“生涯グランドスラマー”は、重圧から解放された心を、ファンの祝福の拍手と大歓声で満たしていた。