「5」が最も似合う男になった丹羽大輝 G大阪の背番号にまつわるストーリー

下薗昌記
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格別の重みを持つ背番号5

かつて宮本、山口らが背負った重みのある背番号5。丹羽は自ら立候補しその番号を受け継いだ 【写真:アフロスポーツ】

 表記の上では4番と6番に挟まれた位置づけでしかない背番号5。ただ、ガンバ大阪では格別な重みを持つ数字であり続けてきた。

「恒さん(宮本恒靖)。(山口)智さん。そしてシジクレイ。G大阪の5番と言えば、ディフェンスリーダーの象徴ですからね」

 脈々と受け継がれて来た系譜をこう語るのは、丹羽大輝である。

 そのクレバーさで最終ラインを統率した宮本。職人的な無骨さと、時に周囲を厳しく叱咤(しった)するリーダーシップで最後尾を支えた山口。そして屈強なフィジカルを生かした圧倒的な空中戦を持ち味としたブラジル人センターバック(CB)のシジクレイ。そのプレースタイルこそ異なるものの、偉大なる先達たちに共通するのは、その存在感とキャプテンマークを巻いたという経歴だ。プレーの質は言うまでもなく、リーダーシップも求められるのが、G大阪における背番号5である。

 そんな重い数字を自ら立候補し、背負ったのが丹羽という男だった。2004年にG大阪ユースからトップ昇格を果たしたものの、公式戦での出番はなし。徳島ヴォルティスやアビスパ福岡などへ期限付き移籍を繰り返した。流転のプロ生活を送っていた丹羽は12年、6年ぶりにG大阪への復帰を決意した。

 前年まで背番号5を託されていた山口が移籍し、チームを去っていたこともあり、丹羽は空き番号となっていた「5」を迷わず選択した。福岡ではチームキャプテンも務め、J1で30試合に出場。地道に経験は積み上げていたものの、G大阪にとって特別な意味を持つ背番号が似合う存在ではなかったのも現実である。

 事実、12年にチームはクラブ史上初のJ2降格を強いられたが、丹羽はレギュラーを取り切れず、ベンチからチームの転落ぶりを見つめていた。栄光の背番号5を汚したという思いよりは、「試合にさえ、満足に出られなかった」というやるせない思いでいっぱいだったという。
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著者プロフィール

1971年大阪市生まれ。師と仰ぐ名将テレ・サンターナ率いるブラジルの「芸術サッカー」に魅せられ、将来はブラジルサッカーに関わりたいと、大阪外国語大学外国語学部ポルトガル・ブラジル語学科に進学。朝日新聞記者を経て、2002年にブラジルに移住し、永住権を取得。南米各国で600試合以上を取材し、日テレG+では南米サッカー解説も担当する。ガンバ大阪の復活劇に密着した『ラストピース』(角川書店)は2015年のサッカー本大賞で大賞と読者賞に選ばれた。近著は『反骨心――ガンバ大阪の育成哲学――』(三栄書房)

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