ファインダー越しのセナと日本GP ホンダカメラマンが明かす写真の記憶
ベルガーに勝利を譲るのは日本人なら分かる
そう、まだF1はもっとローカルというか、欧州文化のレースで、ブラジル人のセナは外国人だったわけです。当時はFIA(国際自動車連盟)会長のジャン=マリー・バレストルがトップにいて、同じフランス人のプロストは、当時のフランスを背負わされていた。よくプロストは爪をかんでいたけれど、あれは内面的にプロストにもいろいろなプレッシャーがあったからなんだろうなと。そして、セナは明らかに不利な立場にいた。その状況を乗り越えるためか、彼の性格からか、他のブラジル人とはまったく違って、感情を出さないというか、自然体でいた。今振り返っても本当に特別なシーズンだったなと思います。
91年日本GP セナがベルガー(中央)に譲った勝利。日本人の感性ならばセナの気持ちも理解できるのではないか 【原富治雄】
どうでしょうね。でも、一緒に戦ってきたチームメートに何かの形で返したい、というのは日本人ならなんとなく分かるなと。でも、ヨーロッパの人の感覚では理解できないだろうし、だからこそ、ルールにもなくて、あとから大騒ぎになったわけです。
時にはカメラを向けず目で追うことも
89年サンマリノGP サンマリノはカメラマンとしては好きなコースではなかったが、午前中トサ・コーナーの光は魅力的だったという 【原富治雄】
マクラーレン・ホンダという意味では日本GPは別格でした。でも、フェラーリならイタリアGPだし、F1レースへの熱気という意味では、リオデジャネイロで開催されていたブラジルGPは特別でしたね。コース脇にものすごい高さのスタンドがあって、裏に回るとさびだらけで、いつ崩れるのかと思うような代物。そこに満員の観客がいて、朝早くからサンバを踊ってドンジャカしている。レースは14時とか15時スタートなのに、ですよ。もう、すべてが想定外(笑)。気温も40度近いから、消防車から観客席に向かって放水するんです。それを受けた観客はさらに大騒ぎ。観客のアドレナリンも全開というか、他のグランプリでは絶対に見ることができない光景でした。
原富治雄さんは日本人F1フォトグラファーの第一人者。取材歴20年以上、数々の歴史的瞬間に立ち合ってきた 【スポーツナビ】
やはり撮影していて楽しいのはモナコでした。プロになる前、雑誌を見て憧れたままのコースが舞台なんだから。あと、秋のモンツァ(イタリア)が好きでしたね。樹々の間から抜けてくる光と影がファインダーをのぞくと見えてね。今は使っていないけど、ブランズ・ハッチ(イギリス)とか、ヨーロッパのオールドサーキットはみんな魅力的でした。それと、メルボルン(オーストラリア)も光が美しいサーキットでした。
92年日本GP 雨のセナ。マクラーレン・ホンダとして最後の年。この年がセナにとって最後のカーナンバー1だった 【原富治雄】
いや、予選のとき、特にセナが最後の最後に出て行くスーパーラップを刻むときなど、写真を撮らず自分の目でその走りを追っていたことも……。実は、89年の日本GPでセナが予選で記録した1分38秒041のスーパーラップ。あのとき、私はデグナーコーナーにいて、誰よりも最高の場所で、セナのスーパーラップを目の当たりにしました。あのときもカメラは構えていたけれど、シャッターを切らず、あの瞬間に立ち合えたこと、目、耳、五感のすべてで感じることができたのは、一生忘れない記憶です。ファインダーをのぞかなかったことは、今でも最高の選択だったと思います。
――ちなみに、その写真は雑誌などから当然頼まれたと思いますが。
ごめんなさい。今だから話せるけれど、一周前の写真でも誰も分からないですからね(笑)。