W杯で輝けなかった伝説のストライカー ハリルホジッチの足跡をめぐる旅<後編>
W杯ではスタメンで起用されず
82年のW杯スペイン大会に出場経験を持つパシッチ。大会期間中はヴァハとホテルが同室で、今も交流は続いている 【宇都宮徹壱】
「僕が代表デビューしたのは、81年のブルガリアとの親善試合だった。この試合にはヴァハも出場していて、開始早々にゴールを決めた。その試合をナントのスカウトが見ていたのが、フランスに行くきっかけになったんだよ。移籍が決まったときには、2人でお祝いしたものさ。僕は左ウイングでプレーしていて、僕からのクロスをヴァハがよくヘディングで決めていた。彼は典型的なセンターFWだったね」
当時のサッカー専門誌を引っ張り出してみると、予想スタメンの3トップの真ん中に「ハリルホジッチ」の名前が見える。右が、のちにボスニア代表監督となるサフェト・スシッチ。左が、190センチの長身を誇るイビツァ・シュリャク。おそらくパシッチはシュリャクの控えだったのだろう。当時、ユーゴスラビア代表を率いていたのが、74年W杯西ドイツ大会でもチームを率いていたミリャニッチ。79年に再び代表監督に復帰し、82年スペイン大会の欧州予選ではグループ1位を確保して、2大会ぶりの本大会出場を果たしている。
「予選では僕らはイタリアよりも勝ち点1上回って、スペイン行きのチケットを手にすることができた。ところが本大会で優勝したのはイタリアで、僕らは実力を発揮できず、1次リーグ3試合で大会を去ることになった。北アイルランドに0−0、スペインに1−2、そしてホンジュラスに1−0」
結局ユーゴスラビアは、開催国スペインに勝ち点と得失点差で並んだものの、ゴール数1差で涙をのむこととなった。あと1〜2ゴールを上積みさせていれば、ユーゴスラビアは間違いなく2次リーグに進出できたはず。しかし不可解なことに、監督のミリャニッチはハリルホジッチをベンチに据え置いた。ベレジュ時代は、2試合で1ゴールという驚異的な得点率を記録し、ナントでの最初のシーズンも28試合で7ゴールを挙げていたのに、である。
「本大会でミリャニッチは、なぜか3トップでなく2トップを採用していた。FWのファーストチョイスは、スシッチと(ズラトコ・)ブヨビッチ。ゴールが必要になってから、DF(ニコラ・ヨバノビッチ)に代えてヴァハが投入された。なぜ最初からヴァハが使われなかったのか、今となっては誰にも分からない」
ヴァハとアルジェリアが果たした「82年のリベンジ」
カフェ『ナント』で見つけた、FCナント時代のヴァハ(前列中央)。日本ではどのような物語を紡ぐことになるのか 【宇都宮徹壱】
ミリャニッチがヴァハをスタメンで起用しなかった理由として、有力な説として指摘されているのが「民族的なバランスを配慮した」というものである。多民族で構成されるユーゴスラビア代表では、スタメン11人のうち「セルビア人何人、クロアチア人何人、ムスリム(ボシュニャク)人何人……」というような配慮が不文律となっていたとされる。82年大会のチームでは、スシッチとブヨビッチがボスニア出身で、前者はムスリム人、後者はクロアチア人。これにハリルホジッチが加わり、前線の3人がボスニア出身者で固められたら、どこからか横槍が入った可能性は十分に考えられる。
もっとも、マリッチが「指導者としても人間としても、非常に尊敬できる人物だった」と語っていたように、ミリャニッチ自身は特定の民族を優遇、あるいは冷遇するようなタイプではなかった。実際、ベオグラードで行われた彼の葬儀には、民族の垣根を越えてかつての同胞たちが一堂に会したと伝えられる。ボスニアからはオシムとスシッチ、クロアチアからはズボニミール・ボバン、モンテネグロからはデヤン・サビチェビッチ、そしてセルビアからはジャイッチ、そしてドラガン・ストイコビッチ。果たしてヴァハは、かつて自身を不可解な理由でベンチに置いた名伯楽の死に、何を思っただろうか。
ところで、この82年大会で「最も不遇な代表チーム」を挙げるとすれば、初出場だったアルジェリアをおいて他にないだろう。この大会でアルジェリアは、優勝候補の西ドイツを2−1で破る大番狂わせを起こし、1次リーグの戦績を2勝1敗としていた。ところが西ドイツとオーストリアが、最終戦で明らかな談合試合を行ったことで(1−0で西ドイツが勝利)2勝1敗が3チーム並ぶことになり、得失点差でアルジェリアは蹴落とされることとなったのである。アルジェリアはその後、86年と10年のW杯に出場したものの、いずれもグループリーグ突破を果たせずにいた。
82年のスペインW杯では、自分自身の努力や力量ではどうにもならず、不本意な形で大会を去ったハリルホジッチとアルジェリア代表。その両者が32年後、がっちりタッグを組んで「82年のリベンジ」を果たす──。何やら出来過ぎのようにも思えてしまうが、いかにも日本人の琴線に触れるようなストーリーに感じるのは、私だけであろうか。
温暖な気候に恵まれたヘルツェゴビナでサッカーの技術と奥深さを学び、素晴らしい家族と仲間たちに恵まれる一方で、民族をめぐるさまざまな諍(いさか)いに翻弄されてきたヴァハ。その半生は、ひと回り年上で生粋のサラエボっ子であるオシムとはまた違った、実に波乱に満ちたものであった。かくして、ヴァハの足跡をめぐるボスニア・ヘルツェゴビナでの旅の物語は、これにていったん終わる。だが日本代表との新たな物語は、まだ始まったばかりだ。
<この稿、了。文中敬称略>