葉桜・桜桃・桜花賞 ◎ココロノアイ=乗峯栄一の「競馬巴投げ!第95回」
太宰の警句で開く馬券パノラマ
[写真3]堅実レッツゴードンキ、鞍上には元騎手の西原玲奈助手 【写真:乗峯栄一】
この頃はIくんという、一回りぐらい年下の印刷工とよく競馬に行っていたが、このIくんがしかし、太宰治を全く知らない。これには参った。
「7R、どうですかねえ?」と出走表突き出してIくんが聞いてくる。
「お尋ねの鎌倉右大臣さまについてですが、それでは私の見たところ、聞いたところを、つとめて虚飾を避けてありのままに、あなたにお知らせ申し上げます」
「太宰競馬人・右大臣実朝」としての決意表明だ。しかしIくんは「はあ?」とぼくの顔を見上げる。
「平家は明るい。明るさは滅びの姿であろうか。人も家も暗いうちはまだまだ滅亡せぬ。はははは」そう笑い飛ばして7Rの馬券を買いに行く。Iくんはただ口を半開きにするばかりだ。
馬券窓口に着くと、おばちゃんの顔をじっと見て「思えば恥の多い生涯を送ってきました」と言う。これは必ず言う。おばちゃんが「何ですか?」と身を乗り出してくると「メロスは激怒した。必ずかの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した」などと急に格調上げて言ったりする。
とにかくこの頃のぼくは、競馬前日は予想紙より太宰治全集を引っ張り出して「明日はこれとこれで行こう」と線を引き、暗記することに専念した。ポカンとする窓口おばちゃんに向かって「昭和十三年の初秋、思いをあらたにする覚悟で、私はカバンひとつさげて旅に出た。甲州の御坂峠を目指したのだ。富士には月見草がよく似合う。馬連3−6と3−7、千円ずつ」とか言う。
「7R、頼みの3番来なかったじゃないですか」とIくんが抗議めいた事を言ったりしたら、もうこっちのものだ。前日の予習がピタリと当たる。
「うるさいわね、泥の船だもの、どうせ沈むわ。分からなかったの? って言いながらウサギさんはタヌキくんの頭にポカン、ポカンと無慈悲に櫂(かい)を振り下ろしたのです」
「何ですか、それ?」
「あいたたた、ひどいじゃないか。おれはお前にどんな悪い事をしたというのだ。惚れたが悪いか。……Iくん、はい、一緒に言ってみよう」と言い、不得要領のIくんと一緒に「惚れたが悪いか」と呟いて、次のレースの予想に入る。何だか分からない。
“このお乳とお乳のあいだに、涙の谷”
[写真4]チューリップ賞2着のアンドリエッテ、あの追い込みを再び 【写真:乗峯栄一】
「どうかしたんですか?」とひとに気を遣う性格のIくんは聞いてくる。必ず聞いてくる。
「髪の毛でも入ってたんですか? とそう聞きたい訳だ、Iくんは。できたらそこに“お母さま”という間投詞ぐらい付け加えたい気分なんだ」
「はあ……」
「いいえ」とことさら傲然とぼくは首を振る。「私はこのレストランでスープをひとさじ吸って“あ”と声をあげてしまったけど、何でもないのよと、そう言って、お母さまはまたヒラリと一さじ、スープを小さな唇の間に滑り込ませたの、こんなに太陽が傾いた“斜陽”の時刻だもの」
「乗峯さん、どうしたんですか?」とIくんは言う。
「Iくん、心配しなくていいんだよ。押入れのあの手紙の束を見たんだね? あの手紙は実は私が自分で自分宛てに書いたものなのだ。寂しさをまぎらわすためにね。もう葉桜の季節だからね。はははは」と笑い飛ばす。
「葉桜の季節って、まだ桜も咲いてないじゃないですか。これから桜が咲いて、ようやく桜花賞でしょ?」
「そうなんだ、でも私はなぜか、満開の桜を書きたくない。この、スープ飲んで“あ”と声を出すお母さまの話でも、チェーホフの“桜の園”を下敷きにしているんだけど、チェーホフの桜の園はソメイヨシノじゃない。サクランボを実らせるための西洋桜だ。間違えてはいけない」と声を荒げる。
「はあ」とIくんはラーメンすすりながら首を傾げる。
「小説を書くのがいやになったから死ぬのです。お前たちのことを考え、そうしてメソメソ泣きます。美智へ。お前を誰よりも愛していました」
「は?」
「女と一緒に死ぬとき、ぼくは家族宛てにこういう遺書を書こうと思っている。それも殴り書きでね。“このお乳とお乳のあいだに、涙の谷”」とぼくは自分の胸を両手で押さえる。
「……」
「7歳の娘、障害を持つ4歳の息子、そして1歳の娘の3人の子供に食事させるのに夫婦でかかりきりになる。“お父さんは鼻の頭に汗をかいて”と言う妻に“それじゃお前はどこに汗をかくんだ?”と怒ると“お乳とお乳の間に、涙の谷”と妻が言う。その言葉にムッとして、机の引き出しの原稿料の残り全部を持って飲み屋に行き、大盛りの桜桃を“子供たちに持って帰ったら喜ぶだろうな”と思いつつ、マズそうに口に入れてはタネを吐き、口に入れてはタネを吐き“子供よりも親が大事”と呟く。その一ヶ月後に遺書を殴り書きする。ぼくはねえ、Iくん、桜は書かないけど、葉桜と桜桃は書くんだ。つまり桜花賞よりダービーの男なんだ」
ぼくの“太宰治競馬”は結局一ヶ月ももたずに終了した。それと同じくマテキも結局2歳の暮れに1勝しただけで、31戦1勝でその競走生活を終えた。でももし「ハザクラとマテキ」あるいは「オウトウとマテキ」という馬名だったら(マテキは元々牡馬だし)桜花賞ではなくダービーへ進出できていたかもしれない。せめてマテキが太宰治全集を馬房に並べていたらと、そう思うとちょっと残念だ。