データは実感の湧く数字に翻訳して伝える=バレー眞鍋監督・女子力の生かし方 第6回
想定外の事態を乗り越えるために必要なもの
左人さし指の骨折を押してロンドン五輪に出場した竹下(右)には、メダル獲得への強い覚悟があった 【Getty Images】
竹下は「私は出場する」の一点張りでした。もちろん、トスを上げられる状態ではありませんでした。3日ほど何もできず、7月26日の最終登録までリミットが残り2日を切り、2人きりで何度も話し合いました。「ほんまにできるんやな」「できます」「よし、わかった、やろう!」。私は腹をくくり、ドクターを呼んで説明しました。ドクターからは「ボールの当たる角度によっては脱臼します」と言われましたが、私も竹下も「分かりました」と返事をするしかありませんでした。
竹下の出場を許可したのは、私と彼女にはある共通点があったからです。それは、ともにセッターとして五輪出場を逃すという屈辱を経験していることです。周囲から努力や存在をも否定されるような挫折を味わっているからこそ、五輪に対する彼女の執着心は痛いほど分かりました。そんな強い気持ちを持った彼女だからこそ、今回のピンチも乗り越えられるかもしれないと考えたのです。
データは大事です。しかし、何が起こるか分からないのが五輪。最後の最後に起こる、こうした想定外の事態を乗り越えるのは、何が何でもやってやるという強い気持ちと、大目標への並々ならぬ想い、そしてそのために積み重ねてきた努力しかないと思います。
データは判断材料の1つに過ぎない
2日間、説得し続けた結果、彼女は「眞鍋さんに任せます」と言ってくれましたが、私は悩みました。結局、私は竹下の人間性と気持ちをくみ取り、メンバーには伝えませんでした。
ケガのことを知っていたのは、竹下と私とドクター、トレーナーの4人。数人の選手は気付いていましたが、ここまでひどいケガだとは思っていなかったはずです。試合中はアドレナリンが分泌され、我慢できたかもしれませんが、試合後の竹下の指には激痛が走っていたと思います。しかし、チームの要としての役割を見事に成し遂げ、念願の銅メダルへと導いてくれました。
竹下は本当にたいした選手ですが、さらに驚いたのは、銅メダルを獲得した後のことでした。彼女は私に、ケガのことは絶対に記者会見で言わないでほしいと言ったのです。恐らく、チームで勝ち取った銅メダルなのに、自分のケガの話だけが大きくクローズアップされるのが嫌だったのでしょう。竹下らしいと思いました。
ケガは想定外の出来事でしたが、竹下の何が何でもメダルを獲得したいという覚悟が、データ上では到底計り知ることができない結果を生み出しました。データは次に取るべき行動の裏付けになりますが、判断材料の1つに過ぎません。1人の選手がメンバーを鼓舞する力や、周りを明るくする力、ピンチに動じないメンタリティーなどは数値化できない。監督はそうした選手一人一人の特徴も頭にたたき込んだ上で、データを活用する必要があります。結果に結びつける最後の砦(とりで)は、「気持ち」だということは否めないのです。
<この項、了>
プロフィール
1963年兵庫県姫路市生まれ。大阪商業大在学中に神戸ユニバーシアードでセッターとして金メダルを獲得し、全日本メンバーに初選出。88年ソウル五輪にも出場した。大学卒業後、新日本製鐵(現・堺ブレイザーズ)に入団。93年より選手兼監督を6年間務め、Vリーグで2度優勝。退団後、イタリアのセリエAでプレーし、旭化成やパナソニックなどを経て41歳で引退。2005年に久光製薬スプリングスの監督に就任し、2年目でリーグ優勝に導いた。09年全日本女子の監督に就任し、10年世界選手権で32年ぶりのメダル獲得に貢献。12年ロンドン五輪、13年のワールドグランドチャンピオンズカップで、それぞれ銅メダルに導く。