ストイコビッチ名古屋の軌跡と功罪=幸せだった“妖精”との6年間

今井雄一朗

“ストイコビッチのサッカー”=“奇襲のサッカー”

ピクシーが名古屋にもたらした最大のものは勝者のメンタリティーである 【写真は共同】

 そうした戦術的な面から“ストイコビッチのサッカー”を考えると、“奇襲のサッカー”と言い換えることもできた。もちろんサイド攻撃とゾーンディフェンスという大きな柱があったわけだが、その運用法においては奇襲という言葉がふさわしい。

 1年目はサイドチェンジが大きな効力を発揮した。セオリーで言えば、ボールの位置とは逆サイドの選手は中央よりのポジションを取ることが多い。しかしストイコビッチ監督は両サイドの選手を常にタッチラインいっぱいに張らせ、サイドチェンジのパスをフリーで受けられるように細工した。「サイドチェンジするだけでこんなに局面が変わるなんて」とは当時の選手たちからよく聞かれた言葉だ。

 2年目は負傷者などの影響もあり3バックの併用や、シーズン途中の補強などで様々な戦い方を試した。そして10年は4−3−3を基本布陣に据え、過去2年の相手の研究を無効化した。11年は10年のチームをブラッシュアップすることで強さを維持できた。しかし3バックの導入に失敗した12年と13年は、布陣を元に戻しても相手に研究されつくした感があり、上手く行けば勝つ、という不安定さを露呈することになった。

 局面を打開するための采配といえば、サイドハーフにFWの選手を入れるなど攻撃の選手を増やしたり、高さを生かしたパワープレーを指示したりといった程度だったことを思えば、奇襲によるアドバンテージの大きさは結果を見るに明らかだ。特に初期のストイコビッチ監督からは「得点を奪うためにFWの選手を増やしましたが、得点は奪えませんでした」というコメントをよく聞いた。

ピクシーがもたらしたものは勝者のメンタリティー

 それでも、彼がクラブに初のリーグタイトルをもたらした“名将”であることは揺るがない事実でもある。この6年間で最高のパフォーマンスを見せた2010年と2011年のチームは、Jリーグ史上に照らし合わせても屈指の強豪だった。各ポジションにリーグ屈指のスペシャリストを配置し、彼らが補完し合うことで大きな力を生んだ。そのまとまりを演出したのはほかでもないストイコビッチ監督である。元スター選手ならではのゲームビジョンと練習時の“実演”で自らの発言の説得力を増し、田中マルクス闘莉王という強烈な個性もそれを上回るカリスマで自らの統治下においた。

「俺、ミスターが人間としても好きだからね」とは闘莉王の言だ。闘莉王だけではない。田中隼磨はチームを去る直前、「俺も5年間、よく我慢したよ。闘莉王とみんなの間に入ったり、戦術を守って自分らしさを抑えたり」と告白している。また前体制ではくすぶっていた玉田圭司の才能を誰よりも買い、厚い信頼で再生をうながした。
「最初に『お前がJリーグでナンバーワンの選手だ。エースになれ』と、あれだけの世界的な選手が言ってくれた。自信になったし、ついていこうって気持ちになった」と玉田は期待に応え、10年の優勝を決めるゴールをはじめ、頼れるエースとなった。あのチームを作れたのは、ストイコビッチ以外にはありえなかった。

 そして監督・ストイコビッチの最大の功績はといえば、名古屋に勝利を習慣づけたことに尽きる。「ミスターは僕らに高い精度を求める。それが結果につながったし、意識を変えてくれた」(中村直志)。この6年間で選手たちは勝つことが当然のことになり、上位を争うことが常識と考えるようになっていた。
「僕らはこんな位置にいるチームじゃない」と、この2年間で何度聞いたかわからない。それは思い上がりでも虚勢でもなく、勝者のメンタリティーが根付いた何よりの証拠だ。「次は勝てるだろうか」と思っている集団では勝てる試合も落としてしまう。あくまで強気に、最後まで勝利を追い求める姿は、「ネバーギブアップ」が口癖の指揮官の精神そのものである。
 今季の最終節後の最後のミーティングでも、ストイコビッチ監督は最後の言葉に「ネバーギブアップの精神を忘れないでくれ」を選び、離日の際にも同じことを選手たちへ贈る言葉とした。

“ピクシー”は名将だったのか。それはイエスでもありノーでもある。成績は文句なし。しかし戦術的な采配と若手の育成においては特筆すべきものは残せていない。次を引き継ぐ監督に優れた人材を残せてはいないかもしれないが、彼らは少なくとも勝者のメンタリティーは持っている。一朝一夕には為しえない仕事は完遂した上で、ストイコビッチは次代へバトンを渡したとも言えるだろう。

「この6年間でみなさんを幸せにできたと思う」

 最後にストイコビッチ監督といえば思い出されるのが、名古屋と日本に対する溢れんばかりの愛情だ。例えば前述のトークショーの後に「今はほっとした気持ちもあるか?」と聞くと、想像以上の“日本愛”を表現してくれた。

「自分にプレッシャーをかけたことはありませんが、08年に名古屋に戻ってきて、いつかは終わる時が来るとは思っていました。しかし名古屋を率いるプロの監督としては納得できても、個人としては耐えられないこともあります。名古屋は本当に私にとって特別な場所ですし、心の中で気持ちはどうしても動いてしまう。私はこれからヨーロッパに帰りますが、今の気持ちは日本から休暇で出かけていくという感覚です。それが正しいかはわかりませんが、そういう気持ちなんです」

 ストイコビッチ監督はとにかく愛し、愛された指揮官だった。雨の試合で傘をさしてピッチサイドに立ってしまうのは彼ぐらいだ。ほかの監督なら、「選手は雨の中でプレーしているのに、傘を指して指示を出すとは」といらぬ批判を受けるかもしれない。しかし、彼なら許される。「この6年間でみなさんを幸せにできたと思う」という台詞に誇張はない。われわれは勝利を信じながら結果に一喜一憂していた。それは実にワクワクする毎日だった。そう、“妖精”との6年間は、確かに幸せだった。

<了>

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著者プロフィール

1979年生まれ。雑誌社勤務ののち、2015年よりフリーランスに。以来、有料ウェブマガジン『赤鯱新報』はじめ、名古屋グランパスの取材と愛知を中心とした東海地方のサッカー取材をライフワークとする日々。

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