宮間あやが語る半生と女子サッカーの今=岡山湯郷となでしこジャパンのステータス

チェーザレ・ポレンギ

W杯決勝でも抱いた相手チームをたたえる気持ち

女子サッカーの地位向上については「文化にならなければ難しいと強く感じる」と語った宮間。 【写真:アフロ】

 ここで思い出されるのが、2011年のワールドカップ(W杯)決勝終了後の光景だ。チームメートと一緒に優勝を祝う前に試合に敗れたアメリカのライバルたちに歩み寄り、健闘をたたえ、慰め、敬意を表することを選び、世界のサッカー界から称賛を集めた。

「すごく興奮した中でしたから、はっきりと自分の気持ちは覚えていないのですが。熊谷(紗希)選手がPKを決めたら勝ちと思った時に、絶対に決めてほしいと思っていたのと同時に、アメリカが負けると思ったら……。アメリカには友達も多かったし、すごい試合だったので。自分たちの優勝というよりは、2つの国で作り上げた素晴らしい試合として受け止めたような気持ちがあって、また自分でそれをたたえたいという気持ちが強かったと思います。アメリカはまだW杯を獲っていないですし、多くの選手たちとはそれまでの2年あまりを一緒に過ごしていたので余計に、自分たちが勝った喜びの一方で何とも言えない気持ちが心にありました」

 なでしこジャパンとW杯についてはあまり触れるつもりはなかったのだが、興味を抑えることはできなかった。元チームメートのGKホープ・ソロと対峙した時のことを聞かずにはいられない。冷静にシュートを決めたように見えた宮間だが、少なくとも心の中では緊張もあったのだろうか。

「緊張していたとは思うのですけど、(ソロとは)同じチームのキーパーとして1年間一緒にプレーしていた。PKの練習も何度も一緒にしていた相手だったので、そこはもう2人だけの世界というか、楽しんで蹴りました」

クラブの解散を経験したアメリカ時代

 宮間はアメリカで約2年間を過ごした。その時期の思い出は彼女にとって大切なものとなっているようだ。

「アメリカに行ったときは、24歳。言葉は全然分からなかったです。チームオーナーが所有する、ロサンゼルス、ビバリーヒルズの豪邸に8人くらいで住んでいました。中国人、フランス人、カナダ人、アメリカ人、そして日本人の私。アメリカ人が3、4人いて、みんなが一生懸命英語を教えてくれました。車の運転もしていたし、楽しかったですね。そのあと1年、リーグチャンピオンを獲得しながらもクラブが解散、その後セントルイスに移籍を果たしましたが、これまたシーズン中に消滅、最後はアトランタに移りました」

 日本の一地方で練習に取り組む宮間の姿を見ていると、アメリカという国際的な場所での経験と、日本との対比についてもう少し質問してみたくなった。アメリカの女子サッカーの環境はいかなるものだろうか。

「スタジアムの雰囲気はいいし、ホームのサポーターが盛り上げるのが上手なのがアメリカ。それに比べると日本は少し寂しい感じもしますが、それはそれでいいのかな。特にこのチームは地元の方が応援してくれて、日頃からここのグラウンドに来てくれます。岡山県美作ラグビー・サッカー場で行われるホームゲームには観客が2千人から3千人くらいは入りますし、岡山スタジアムなら約9千人。(観客数は)なでしこリーグで平均2位くらいなので、スタンドを見上げると本当に多くの方が応援してくれているのだなと実感します」

 アメリカの選手たちにあって、日本の選手たちに欠けているものがあるとすれば何だろうか? その答えは、海外でのプレーを経験した他の日本人選手たちからも何度か聞いたことがあるものと同じだった。アメリカの選手は、メンタル面でのオンとオフの切り替えが非常によくできるというものだ。

 だが、W杯決勝やオリンピック決勝でアメリカ代表と互角に渡り合ったなでしこジャパンも、逆にアメリカの選手たちが持っていない何かを持っているはずではないだろうか。日本の選手たちの全体的なレベルやプレースタイルについて質問してみた。

「世界の中でレベルを見ると、戦術であったり、ボールを動かすことについては秀でている部分も多くあると思います。フィジカルだけで戦っていないという点ではレベルは高いと思いますが、さらにそこに速さや強さも考慮するとまだまだ向上の余地はあると思います。日本が世界で戦う上ではある程度のフィジカルも必要ですが、そうではない部分も磨かなければ戦えないので、なでしこ独自のスタイルで、その方向性で突き詰めていくことのほうが大切だとは思っています」

女子サッカーが文化にならなければならない

 現在の日本で、女子サッカー界のムーブメントはどのように位置づけられるのだろうか。2年半前にW杯優勝を果たしたとはいえ、いまだ男子サッカーの影に生きていると言うべきかもしれない。

「前向きなトライはしてほしいと思いますが……。W杯で優勝した時には、多大な賛辞をいただいたり、まさかの国民栄誉賞までいただきましたが、男子が、W杯に優勝しても同じかな、と。それは比べても仕方ないと思いましたね」

 なでしこジャパンは現在、世界タイトルを保持するチームであり、FIFAランキングでも3位と男子のそれを大幅に上回っている。日本の女子サッカーがそれにふさわしい地位を獲得していくためには何が必要とされているのだろうか。

「文化にならなければ難しいと強く感じます。自分たちができるのは、今できること、していることを続けていく。一人の力は小さいけれど、みんなでやればその光は細くてもずっと続いていくと思うので……」

 日本の女子サッカーをこれから未来に向けて引っ張っていける者がいるとすれば、それは誰だろうか。「引退後についてはみんそれぞれ考えているけど、何から初めていいのか分からないというのが正直な気持ちです」と宮間は具体的な名前を挙げはしなかった。

「宮間以後」の時代を語り始めるにはまだ早いし、彼女自身もそれを望んではいないだろう。まだ28歳の宮間は、あと10年はトップレベルで活躍を続けることも可能かもしれない。だが女子サッカー界におけるその存在の大きさを考えれば、スパイクを脱いだ後に何を計画しているのかも非常に気になるところだ。

「引退後に有名な指導者などになりたいとは今のところは思っていないですが、すごく小さい子供たちにボールを蹴る楽しさを教えてあげたいと思っています。今でも監督や他の選手たちと一緒に毎週幼稚園や保育園に行って、サッカーしています」

なでしこをブームで終わらせないために

 宮間自身も、小さな子供の頃からボールを蹴り始めた一人だった。

「6歳の時に父がサッカーチームを作って、それと同時に本格的に始めたんですが、それまでも父がサッカーをやっていたので、家の中や公園に行ってボールを蹴ったりはしていました。男の子のチームの中で小さかったけど、男の子とか女の子とか全然気にせずやっていて、毎日が楽しかったです。その頃はプロになりたいと思ったことはなかったし、女子サッカーにプロがあることも知りませんでした。

 プロになりたいというよりは、自分が小学生くらいのときに海外のサッカーがテレビで見られるようになってきて、世界でサッカーがしたいなと思ったのが10歳くらいの時ですね。そのときは自分が女の子とか男の子とかよく分かってないから、ただああいうふうにサッカーがやりたいなと思いました」

 宮間がひとたびプレーを開始すれば、見る者は無心に、ただただ彼女のボール扱いだけに引き込まれてしまう。そこには年齢、性別、身長や国籍など全く意味を持たない。彼女はゲームにおける唯一無二の存在となり、究極のサッカーを表現してくれる。日本に彼女のような選手がいてくれるのはまさに幸運だと言うほかない。

 2011年にドイツの地でなでしこジャパンが成し遂げた勝利は、決して一時のバブル時代のように消し去ってしまって良いものではない。2年半が経過した今も、日々の仕事や学業を終えた後、多くの女子選手がサッカーウェアに着替え、日本女子サッカーの成功に続くべく必死の練習に励んでいる。

 日本のサッカー界全体が成すべきことは、世界に向けて日本サッカーのイメージを大きく向上させてくれたなでしこたちが、選手としてのキャリアの中でも、それを終えた後も、然るべきサポートを末永く受けられるような環境を整えることではないだろうか。

<了>

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著者プロフィール

イタリア、ミラノ生まれ。1994年より日本に滞在。現在はGoal Japanの編集長として活躍、また今季は毎週水曜日Jスポーツ『Foot!』に出演中。ツイッターアカウントは@CesarePolenghi

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