関西で人気絶大、正確無比なショット――シニアで輝く井戸木鴻樹の源流

ゴルフが根付いた土地で腕を磨く

今年5月末に「全米シニアプロ選手権」優勝という大金星を挙げた井戸木鴻樹。7月11日からの「全米シニアオープン選手権」で2勝目を狙う 【写真は共同】

 今年5月末に「全米シニアプロ選手権」優勝という大金星を挙げた井戸木鴻樹の今季2度目のメジャー挑戦が7月11日午前8時13分(現地時間)にスタートする。USGA(全米ゴルフ協会)が主催する「全米シニアオープン選手権」だ。

 1961年11月2日に大阪府茨木市で生まれた井戸木は、10歳でゴルフを始めた。当時その年齢でクラブを握るのは、多くは経済的に恵まれた家庭の子弟だ。しかし、母一人、子一人の母子家庭で育った井戸木は、母が体調を崩しキャディの職を失い、生活保護を受けていたこともあったという。

 そんな井戸木がゴルフに魅了されたのは、関西の名門コース、茨木カンツリー倶楽部の城下町とも言うべき土地柄で育ったからだ。半径500メートル以内に40人以上のプロゴルファーが住んでいるという地域。プロゴルファーの草分け的存在の宮本留吉。“関西のドン”と呼ばれた杉原輝雄も茨木カンツリーの出身である。

 井戸木は茨木市立豊川中学を卒業してすぐに研修生になったが、杉原門下の中で当時台頭する若手を“関西5人衆”とマスコミは呼び、そのうちの宮本康弘、中村通、山本善隆、前田新作の4人までもが同中学の先輩だった。彼らは、井戸木によれば、「みんな歩いて5分ぐらいのところに住んでいた」と言うのだから、刺激を受けないはずがない。「テレビで山本さんや中村さんが優勝するシーンを見てて、オレもあんなふうになりたいなあって憧れたもんですよ」と井戸木は振り返っている。

 井戸木の母親がキャディをやっていたように、プロやコース管理など茨木カンツリーで働く者が周囲には大勢いた。前田や中村の母親もやはりキャディとして働いていたそうだ。「他の地域の子供たちが野球をやるように、ゴルフで遊んでいた」と井戸木は言う。ゴルフが遊びのひとつとして根付いていた土地柄で、近所のおじさんたちに誘われて井戸木はクラブを握り、ゴルフの腕を磨いた。

杉原門下生として師匠の「ええところを盗む」

 21歳でプロテストに合格。しかし、なかなか芽が出ない。24歳のときに杉原一家の合宿に誘われたのを機に井戸木の成績は徐々に上向き出した。1990年・関西プロ選手権で本命と目されていた杉原を逆転して井戸木がツアー初優勝を果たしたのは28歳のときだった。その3年後に新潟オープンでツアー2勝目を挙げたものの、以後シニア入りするまでツアー優勝はない。

 勝ち星に恵まれなかったのは、167センチと小柄で飛距離が出なかったことと、度重なる怪我や故障もあったからだ。それでも、関西エリアでは『ドッキー』の愛称で親しまれる井戸木の人気は絶大だ。関西ローカルで自分の番組を持っていたことも人気の理由であろうが、やはりその人柄が関西人の心を掴んだからだろう。
 山本善隆は井戸木を評してこう言う。「井戸木は杉原さんのええところを全部盗んだのやね。スイングのええところはもちろん、メンタルのええところも、行動とか、まわりへの気遣いとか、もちろん杉原さんにも悪いところはあったのかもしれませんけど、井戸木はええところだけ見て、それを盗んだのやね」と。

 杉原は40代半ばを過ぎたころ、年々衰える飛距離をカバーするためにドライバーのシャフトを徐々に長くして47歳のときに47インチにした。井戸木もそれに倣い47インチのドライバーを使っている。「キャリーで240ヤードがやっと。その手前にハザードがあったら刻みます」と言う井戸木だが、ショットは正確無比。滅多にフェアウェイを外さない。だからこそ、狭いフェアウェイ、深いラフといったメジャー特有のハードなセッティングで欧米の強豪と伍して戦うことができたのだ。

 全米シニアオープン、2週後の全英シニアオープン、そして8月の全米プロ選手権。今後、井戸木がメジャーでどんな戦いぶりを見せてくれるのか、楽しみにしたい。
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著者プロフィール

長らく週刊ゴルフダイジェストでトーナメント担当として世界4メジャーを始め国内外の男子ツアーを取材。現在はフリーのゴルフジャーナリストとして、主に週刊誌、日刊誌、季刊誌になどにコラムを執筆している。

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