長崎が夢の扉を開いた歴史的な1日=J2漫遊記2013 V・ファーレン長崎

宇都宮徹壱

G大阪との力の差は明らかだったが

前半で3点リードされた長崎は、ハーフタイムで金久保彩(青)を投入。後半は次第にペースを握るようになる 【宇都宮徹壱】

 前半は、ほとんどの時間帯をG大阪が支配していた。おなじみの流れるようなパス回しに、長崎の選手たちは追いかけていくのが精いっぱい。今季から長崎を指揮する高木琢也監督は、選手の走力に重点を置いた練習を積んでいると聞いていたが、これほど振り回されていては、守備にほころびが出てくるのも時間の問題であろう。

 案の定、前半13分に失点。二川孝広のクロスに対し、長崎のGK岩丸史也がキャッチミスしたボールは、平井将生の肩に当たってゴールイン。何とも悔やまれる失点であったが、その後もG大阪は着実に得点を重ねていく。24分、二川のスルーパスを受けた平井が、長崎の守備網をぶっちぎるドリブルで文句なしの2点目をゲット。さらに35分には、二川が目の覚めるようなミドルシュートを決めて、点差を3点に広げる。前半は、昨年までJ1だったクラブとJFLだったクラブとの力の差が如実に現れる展開だった。

 長崎に来て7年目。地域リーグ時代からチームを支えてきた最古参のFW有光亮太は、けがのため、この記念すべき試合をスタンドから見守っていた。

「普通だったらやらないミスが続いたので(前半の失点は)もったいなかったですね。あれだけの大観衆を前にして、プレーするのが初めての選手もいました。だから硬くなる部分もあったけど、この雰囲気を変えないとボロ負けする予感はありましたね。ですので、後半の監督のさい配には注目していました」

 後半、高木監督は思い切ったベンチワークを見せる。ハーフタイムでボランチの一角を削り、今月1日に水戸ホーリーホックから移籍してきたばかりの金久保彩をトップ下のポジションに投入。フレッシュかつスピードのある金久保が前線に加わることで、長崎の攻撃は目に見えて活性化してゆく。さらに後半21分には、それまで前線で起点となっていた幸野志有人に代えて、長身FWの水永翔馬を起用。やや疲れが見えるG大阪に対して、水永をターゲットとしたロングボール戦法にかじを切る。そして迎えた後半35分、長崎は井上裕大からの長いパスに水永が最終ラインぎりぎりから抜け出し、さらに相手GKとの1対1を制して、強豪G大阪からついに1点をもぎ取った。

 たかが1点、されど1点。水永のゴールで勇気を得た長崎は、その後もロングボールやサイドチェンジを多用しながら、必死の形相で相手ゴールを攻め立てる。後半37分には、10番を付けた佐藤由紀彦が5シーズンぶりにJのピッチに登場、スタンドの熱気は最高潮に達した。だが劣勢となりながらも、G大阪の守備が破たんすることはなかった。結局、終盤の追い上げムードを生かしきれず、1−3で長崎は完敗。精も魂も尽きたという表情の選手たちには、スタンドから温かい拍手と声援が贈られた。

3月10日は『革命』だった

ファイナルスコアは1−3。G大阪との戦力差は明らかだったが、それでも長崎のサッカー界は新たな歴史を作った 【宇都宮徹壱】

 あらためて、長崎にとっての歴史的な1日について、当事者たちの言葉を拾い上げていくことにしたい。まずはフロント陣。彼らはいずれも反省しきりの様子である。

「やはり、今まで使用したことのないスタジアムであったので、そこは大変でしたね。大きな事故がなかったこと、競技が無事に遂行されたこと、この2点については良かったと思っています。ただ、それ以外はボロボロでしたね。チームの動線とか、売店の配置とか、もっとやれることがあったと思います」(溝口部長)

「Jのほうから言われたのは、お客さまの立場に立っていない。どこに何があるか一切分からない。掲示の仕方が悪い。AD(アクレディテーション)コントロールもうまくいっていなかった。これらの問題は集約して、全体会議で検証する予定です」(宮田社長)

 一方で気になるのが、次のホームゲーム(3月20日、対カターレ富山戦)でどれだけの観客が、再びスタンドに戻ってくるかである。その点については、選手を代表して有光に答えてもらおう。

「あの試合の盛り上がりの半分は、ガンバとそのサポーターのおかげでしたね。彼らのネームバリューがあったから『見に行ってみようか』という(地元の)お客さんもいたと思います。でも、あれがスタンダードになると、相当にハードルが高いですよ(笑)。だから、そこは試合内容で見せていかないといけないですよね」

 最後に登場していただくのは、長崎のサポーターグループ「ウルトラス長崎」の初代コールリーダーで、現在は長崎の番記者としてこの試合を記者席で見守っていた、植木修平である。植木は、長崎のクラブが地元でJリーグの試合を開催したことの歴史的な意義について、このように語ってくれた。

「93年にJができた時、17歳だったわたしは長崎を準ホームにしていた横浜フリューゲルスのとりこになりました。その後、福岡の大学に進学してからは、アビスパ福岡を必然的に応援していました。でも、地元にJクラブがないことに、どこかで満たされないものを感じていたんです。大げさかもしれないけれど、自分の国を持たない民族のような感じ(苦笑)。それだけに、長崎にJクラブができて、諫早にこれだけのお客さんが詰めかけ、皆で『ナガサキ!』とコールした時には、古参サポーターのひとりとして天に昇るような気分でした。多くの人は気付いていないかもしれないけど、3月10日は『革命』だったと思います」

 その「革命」が起こるまでに、長崎はどのような歴史を歩んできたのか。次回は関係者の証言を通して、振り返ることにしたい。(文中敬称略)

<了>

(協力:Jリーグ)

2/2ページ

著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント