松井大輔、不遇の1年で取り戻した自分らしさ=新天地のブルガリアで誓ったこと

木村かや子

「故障後の態度に失望した」とディジョン監督は言ったが……

ディジョンで出場機会に恵まれなかったのは、カルトロン監督(左)との行き違いが原因だった 【写真:PanoramiC/アフロ】

 ついてなかったディジョンの話が出たところで、ここで少し、移籍のネックともなったディジョンでの顛末(てんまつ)を説明しておこう。故障からの復帰後にも起用がなかったため、ポーランドへの移籍を考慮したが、結局残留したところまでは以前のコラムで述べた通り(2012年2月3日掲載)。その後も出場の望みを捨てずに練習に打ち込んでいた彼だが、チームが負け続けようと、けが人が続出しようと、監督は一向に松井を試合に招集しなかった。結局ベンチ入りもないままシーズンが終了し、クラブは2部に降格。契約に『降格した場合は契約解除』の条項があったため、その時点で松井は無所属となった。

 レギワ・ワルシャワへの移籍話が挙がった先の1月、松井を起用しないことに関する監督の説明は「彼は期待に応えなかった」という、かなりあいまいなものだった。本人もここまで出さない理由を知りたがっていたのだが、はっきりした説明はなし。しかし監督は、レンヌに大敗したシーズン最終節の後にようやく、「何より(10月に)けがをしたあとの彼の態度に失望した。チームのために早く治して復帰しなければ、という意気込みが全く感じられなかった」と明かしている。

 これは、一見のんきに見える松井の人となりと、熱血すぎて裏の心理を読めない監督の間に生まれた、悲しい誤解だったように思う。確かに、「けがをしたときには焦ってもどうにもならない」と気持ちを切り替えてリハビリを行っていた松井だが、その一方で、実は遅々として改善しない故障の状態に、かなりの不安を感じてもいた。「監督は、『痛みが引かないとか言って、実はできるんだろう』というオーラを醸し出していた」と後に本人が明かしたとおり、松井も、治癒の遅さに対する監督のいら立ちを感じていた様子。しかし「普通のねんざだと、ガチガチにテーピングをすれば痛みを感じなかったりする。でも今回のは、腫れも痛みもぜんぜん引かず、どう頑張ってもプレーできなかった」のだという。

 治癒の遅さに不安を感じ、日本の医者にも相談するなど、松井自身、試行錯誤を続けていた。日本の医者とフランスの医者の間で治療法に関する意見が分かれるという問題にも悩まされ、最終的に日本の医師が薦めた注射をする治療を行って、ようやく治癒が加速した、と松井は明かしている。

 実際、痛くてまともにプレーできないときに、根性で無理してやっても悪化させるだけだが、顔に出して表現しないと分かってもらえないのが外国。故障でプレーできない選手の心痛を汲む監督も存在するが、熱血漢のカルトロン監督には、特に成績を出さねばならないプレッシャー下で、そのような配慮をしている余裕はなかった。故障中の態度うんぬんと言いはしたものの、監督は実際のところ、シーズンの大事な時期に故障し、その治癒が遅かったこと自体に腹を立てたのではないかと思う。

 余談だがその間、「監督の親友であるファシャセラピスト(フィジカル・トレーナーの一種)のルノー氏によって体調レベルが高いとみなされた選手が試合に招集される」といううわさが流れ、ルノー氏が選択に影響力を持ちすぎることに物議を醸した会長と、監督の間で、ちょっとした衝突が起きていた。さらにメディアにも起用法を非難された監督は、記者会見で「君ら中傷者にはへどが出そうだ」と怒りを爆発させつつ、長時間の演説をぶち上げ、変人として一躍有名に。穏やかそうな外見とは裏腹の、カッとなりやすい一面を見せている。

 この説の真偽は別にし、いずれにせよ監督とのフィーリングが合わないことを察知していた松井は、監督が変わらない限りディジョンでの未来に希望は持てない、と感づいていた様子だ。しかし、シーズンも終盤に入っていたため、2部に降格しない限り監督は交代しそうもなく、トンネルの出口は見えなかった。

 結果的に、上記の会長と監督の確執は本物だった。シーズン末に対立は再び表面化し、37節に降格が決定すると、まずは会長が辞任。両者の対決で、監督に軍配が上がったかに見えていた。それもあって、最終節(38節)のカルトロン監督は、降格にもめげず嬉々(きき)として自ら続投を叫んでいたのだが、翌週に幹部の新体制が決まるや、今度は監督までも解任となる。そして7月、カルトロンは唐突にマリ代表監督に就任し、「恐らくフランスでは、わたしの監督のやり方は好まれないのだ」との捨てぜりふを残して去っていった。

 もし辞めたのが監督だけだったなら、話し合いの末「残ることも考えた」と言う松井だが、この際「もし」は役に立たない。誰が悪いか否かではなく、それは、故障、誤解、性格の不一致といった、いたしかたない不都合の積み重ねだった。「たった3試合とはいえ、与えられた期間に見せられなかった僕にも非がある」と話す松井は、ディジョンでの不運な経験は背後に押しやり、新しい国で再スタートする道を選んだ。

「もう一度上を目指したい」

 こうして松井は、ブルガリアへ渡った。チームとしての目標は「やはり優勝。ヨーロッパリーグやCLに出られるよう、順位を上げていくこと」。その中で自分が立てた目標は、ただただ「毎週末、試合に出ること。毎試合得点に絡むこと」だ。リーグの知名度の低さや、見知らぬリーグに行くことへの抵抗は、全くなかったという。

「日本のJリーグに戻る気はないのか」という声もよく聞くが、松井には、ヨーロッパへのこだわりがあるように見える。その理由を聞くと、松井は「ヨーロッパ、楽しくないですか? いろんな人と知り合えるし、いろんなところに友達ができるかもしれない。いろいろな人の考え方を知ることもできる。もちろん、いいオファーがあれば日本でやりたいという気持ちもありますよ。でも今は、家具も何もフランスにあったりするから!」と本音とジョークを交えて答えた。

 そして最後に、松井はこうも言っている。
「できればあと数年はプレーしたい。カズさん(三浦知良)を見習って、杖つきながら頑張ります。この地で違う自分を発見できればいいなと思うし、成長はずっとし続けられるものだから、向上心を持って、もう一回、上を目指したい」

 つまずいて起き上がり、何かが吹っ切れたように見える。ここ数年繰り返していた「もう30歳だから」というせりふを、今回、彼は一度も口にしなかった。サッカー人生には、いろいろな種類がある。常に人とは一風違った、険しい道を選んできた彼であるから、この際思い切り泥くさく、この欧州街道を突き進んでもらいたい。かつての冒険心を取り戻した、松井らしい松井のままで。

<了>

2/2ページ

著者プロフィール

東京生まれ、湘南育ち、南仏在住。1986年、フェリス女学院大学国文科卒業後、雑誌社でスポーツ専門の取材記者として働き始め、95年にオーストラリア・シドニー支局に赴任。この年から、毎夏はるばるイタリアやイングランドに出向き、オーストラリア仕込みのイタリア語とオージー英語を使って、サッカー選手のインタビューを始める。遠方から欧州サッカーを担当し続けた後、2003年に同社ヨーロッパ通信員となり、文学以外でフランスに興味がなかったもののフランスへ。2022-23シーズンから2年はモナコ、スタッド・ランスの試合を毎週現地で取材している。

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント