元NHK解説委員・山本浩が語るスポーツの「見せる戦略」
サッカー史に残る名実況は「評価されるとは思っていなかった」
NHKアナウンサーとしてサッカーや五輪競技の取材、実況を担当した山本氏 【スポーツナビ】
――山本さんの名実況として知られる「東京・千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうに、メキシコの青い空が近づいているような気がします」(サッカー・1985年ワールドカップアジア予選)のような言葉は事前に用意していたのですか?
実況前には「こんな感じかな……」という候補を3つ、4つは考えていますが、私は準備し過ぎると駄目でしたね。周りの雰囲気やピリピリしたムードを体で感じて、アドレナリンが出てくると、パン!と言葉が出てきます。
実際には「メキシコの〜」については評価されるとは思っていなかったですね。先輩にも怒られましたから。
1997年のサッカーで「ジョホールバルの歓喜」の実況も担当していましたが、事前には考えておらず、パン!と出た言葉がありましたね。試合途中で城彰二選手が倒れまして、そのときに「痛くないなら立ってくれ!」と言ってしまいました。
また、延長戦に入るときに日本選手が円陣を組んでいて、岡田武史監督が腕を組んで少し離れたところに立っているときに言葉が出てきまして、「このピッチの上、円陣を組んで、今、散っていった日本代表は、私たちにとっては“彼ら”ではありません。これは、私たちそのものです」。この言葉も印象に残っていると言ってもらうことが多いですね。
――実況しづらかったスポーツはありますか?
困ったのはアトランタ五輪のときでした。五輪のときはNHKと民放のアナウンサーが協力して実況を担当するんですが、ある日、急きょクレー射撃の放送をすることになったんです。クレー射撃を実況した経験があるアナウンサーがいなかったため、私が行ったんですが、解説者もおらず1人で担当しました。英語のルールブックと選手のプロフィール読みながら、「この選手は釣りが趣味だということです」なんて話しましたね。「間」のあるスポーツですから、1人では大変でした。
――世界的なスポーツイベントを開催する際に、地域ができることは?
日本では五輪招致のキャンペーンは、何人かの有名選手のイベントとして終わってしまうことが多いですね。過去に五輪に出ている大多数の人は報道では大きく取り上げられません。多くのオリンピアンの持つさまざまな経験はすごく貴重だと思います。過去に五輪に出た選手を改めて取り上げながら、次代につなげていければと思います。
例えば港区にも五輪出場経験がある人がいると思います。外国の方でもいるのではないでしょうか。皆でスポーツを広めていって、その財産を共有できればいいと考えています。
<了>
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