オリックスに80年代の“勇者”がよみがえる!
球団の歴史が大きく動いた80年代
阪急のユニホームに身を包んだ坂口智隆(左)と岸田護 【オリックス野球クラブ株式会社】
70年代に黄金期を迎え、パ・リーグのみならず日本球界をリードしていた阪急だが、80年代は、斜陽と復権の10年だった。そして、88年秋の球団売却までのカウントダウンが、密かにも確実に進んでいった時代でもあった。阪急という球団の歴史が大きく動いた時期であった。
80年のシーズン、阪急はパ・リーグで5位という順位に甘んじた。実に10年ぶりのBクラスだった。この低迷が名将・上田利治の監督復帰につながり、復権目指して阪急が動き始めたのもこの時期だった。ところで、当時のパ・リーグ各チームの力関係はいかなるものだったのか。阪急が隆盛を謳歌(おうか)した70年代が去り、80年代は近鉄の連覇で幕を開けた。そして81年には日本ハムが頂点を極めるなど、パは群雄割拠の時代に突入するかと思われた。ところが、新興勢力であった西武が82年に初優勝を飾ると、一気にパの盟主につくことになる。そう、80年代は西武黄金時代の始まりでもあったわけだ。そして。阪急をはじめとするパの5球団は“打倒・西武”の旗印の下に覇権を競うことになる。
そんな時代に阪急が輝いたのは84年のシーズン。三冠王ブーマーが打線をけん引すれば、佐藤義則、簑田浩二、弓岡敬二郎がチームの中心に座し、若手の松永浩美、藤田浩雅、山沖之彦らが台頭、さらには70年代の黄金期を支えた福本豊、山田久志らのベテラン組も健在で、勝つための要素が絶妙にブレンドされた魅力的なチームだった。
阪急はその年、6年ぶりにパ・リーグを制し、再び連覇の道を歩もうとするも、その後のシーズンにおいて、パ・リーグの順位表の一番上に、阪急という球団名が載ることはなかった。そして、88年10月19日。球団のオーナーシップ変更が発表された。同じ日、奇跡の逆転優勝を目指す近鉄は、川崎球場で死闘を繰り広げていた。さまざまなドラマが交錯し、いくつもの物語が凝縮された日が、“10・19”。この日の出来事は今でも、人々の胸に深く刻まれ、色濃く記憶の中に留まっているはずだ。
“ブレービー”の活躍などスタジアム演出も進化
ブレービーが球場をテーマパーク的ムードに彩ると、1982年に設置されたアストロビジョンは、プレーの再生や選手のクローズアップ、さらにはアニメーション演出で、スタジアムにテレビのあるお茶の間的空間を創り出したのだ。本格的なマスコット演出が球界初なら、大型映像装置を持った電光掲示のスコアボードは関西の野球場としては初の導入だった。
阪急のスタジアム演出やファンサービスは、この80年代に大きな進化を遂げ、この流れは、後にプロ野球界が辿る道筋のランドマークになったのは紛れもない事実である。これらの努力も実って、1986年、関西のパ・リーグ球団として初の100万人の観客を動員、球団創立50周年に花を添えた。
OBを招いてのリスペクトセレモニーも実施
職業野球の黎明(れいめい)期からの老舗球団だった阪急。時を経て、オリックスが経営権の譲渡を受けた後、近鉄球団との統合を受けて今のオリックス・バファローズはある。他球団と比べても、その成り立ちと“お家事情”は複雑であるが、それだからこそ、オリックス球団は、“LEGEND”として過去を尊び、ファンに示す必要があるわけだ。
われわれファンも、この機会に球団の歴史に目を向けながら、過去の先達の功績を、いま一度、心に刻むべきだろう。時間の堆積とそこに生きた人々の足跡、それら縦横の糸が織りなすことによって生み出された事実と結果は、長い年月ののち、奇跡とも伝説とも呼ばれるようになる。さぁ、今によみがえる80年代をしっかり見届けよう。遠い過去の物語が、絵空事でなかったことを確かめるために……。
<text by 大前一樹>
<了>
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