大林素子が語る挫折と波乱に満ちたバレー人生

情報提供:オリコンDD

予期せぬ解雇。夢のために支払った代償

予期せぬ解雇に遭い、人生のどん底を味わうが、その経験があるからこそ今の自分がある 【写真:江藤大作】

――中学2年からは、全日本監督だった日立の山田重雄監督のもとで実業団選手の練習に参加。将来を期待されたことで、コンプレックスが解消されたのでは?
 
 自分を否定しなくなりましたね。自分を認めた。受け入れられるようになった。それまでは否定、否定。でも、いまだって小さくなりたい。「願いが叶うとしたら?」と聞かれたら、1メートル65センチになりたい。1メートル45センチでもいい(笑)。

――93年、サッカーの「Jリーグ」が発足。プロ化の波はバレー界にも押し寄せて、大林さんはプロ選手を目指しました。
 
 バルセロナ五輪のとき、バレーのメダリストはみんなイタリアのセリエA所属のプロ選手だった。日本はソウル五輪4位、バルセロナ五輪5位でメダルに届かなかった。私は日本一のチームでずっとエースだけど「このリーグでやっていたら絶対に金メダルは無理だ」と。国内リーグの限界を感じました。プロチームでプレーするか、海外へ移籍したい、と。

――94年7月、同じ志を持つ仲間10数人と所属企業へ辞表を提出しました。

 「行かれたら困る」「チームをどうするんだ?」と受理されなかったので、一度は撤回しました、それが翌日、私と吉原(知子)だけが呼ばれて、「二人は解職処分にする。大林はキャプテン、吉原は副キャプテンとしてチームに影響を与えた」と……。本当にドラマみたい、映画みたいな出来事でした。

――人気、実力共に?1のエースが、Vリーグ発足の翌日に『解雇』されて世間に衝撃を与えました。マスコミからは「所属企業から手厚く支えてもらっておきながら身勝手だ」と激しく批判されました。

 本当に「バレーが上手になりたい、プロになりたい」という純粋な思いだけ。お金とかどうでもいい。夢だけだった。でも社会的な知識もなく、甘さもあった……。それまでは電話代や電気代などの支払いを何一つやったことがない生活。バレーボール以外は何もしていなかったので、あまりに何も知らなかった。人生であれほど泣いたことはないくらい、1週間泣き崩れました。大人や会社に対する不信感、裏切られた絶望感を感じました。でもその先にあったのは実は“最高の宝物”だった。


ある企業の出資で大林を中心にしたプロチームを結成する動きがあったが、所属企業からの解雇という“制裁”によって、流れは封じられた。海外移籍への道筋も見えない。現役の続行すら危ぶまれた。すべてを失うリスクを冒しても夢を追う。どの世界でも新たな道の「1号」になるのは過酷だ。

解雇の経験から得た、自分自身の“武器”

挫折と波乱に満ちた人生を歩んでき大林。だからこそその笑顔には人の心を打つ力がある 【写真:江藤大作】

――解雇された1カ月後、イタリアのチームとのプロ契約が決定しました。

 決定して4日後が出発だったので、洗濯物を部屋に干したままイタリアへ行ったんですよ。(笑)

――当時のサラリーマンは終身雇用が当たり前で、転職すら珍しかった時代。企業所属の選手によるプロ契約と海外移籍は大きな話題になり、「女性スポーツ初のプロ選手」「海外移籍1号」と呼ばれました。

 行く前は「どうせ行けるわけがない」「行っても活躍できない」と言っていた人が、結果を作ると「やっぱりすごい」とガラリと態度が変わった。野球のメジャーリーガーの野茂(英雄)さんもそう。私たちのときもそうだった。

――プロ契約や海外移籍という「夢」が実現するかは未知数の段階で解雇。かなり不安があったのでは?
 
 それでもプロになりたかった。お金の額じゃなくてやりがいのある場所でやりたい、それだけのこと。夢を言い続けてこだわり続けてきたことが、私の中で一番大事。だから自分を緩めたり妥協はしなかった。こだわり続けてきたから、一番いいものを選べた。そう思っています。

――練習場所も失い、貸してくれる体育館を探して転々とする日々。マスコミには自宅や実家まで追いかけられ、大々的に報道されていました。

 本当にあのときのマスコミは敵でした。プロに行けた瞬間、全てを許す、というのは上目線な言い方ですけど、全てを受け入れることができた。夢を叶えるための試練だっただけ、という気がします。

――プロになって自分の中で変化したことは何ですか?

 プロになった以上、プレーはできて当たり前。言動や立ち居振る舞いなどの「全てを見られている」という意識が生まれました。自分のブルマをハイレグにしたのもそれがきっかけ。以前より練習したし、その姿を見せることで後輩も育つ。私がパイオニア。まったく苦痛ではなくやっていて楽しかった。

――さまざまなことを経験して、いま思うことは?

 解雇してくれてお礼を言いたいですよね。あのまま日本にいたら、私は普通の選手で終わっていた。そうしたら芸能界入りもなかったし、プロ選手にもなれなかったし、アトランタ五輪にも行けたかどうかも分からない。やっぱりプロ1号として色んなものを見ることができたし、知ることができた。いまの私の“武器”となっているものは、解雇の後から全て得られているんです。

コンプレックスが長所になる。ピンチがチャンスになる。人生を通して自分の“武器”を作り上げてきた。知らないことや興味があることにどんどん突き進む。それが好循環となって次々と道が開けていく。華やかで自信にあふれた笑顔の奥には、今でもはかなくて傷つきやすい少女の心がある。弱さを知っているからこそ強くなれた。自信がなかった頃の自分に戻らないため、過酷な練習や環境にも耐え抜いた。信念を貫けた。後天的につかんだ笑顔には、人の心を打つ力があった。

<了>

大林素子プロフィール

1967年6月15日、東京都小平市出身。元バレーボール選手。日本代表。 
中学1年からバレーボールをはじめ、中学3年で東京都中学選抜入り。83年、バレーボールの名門、八王子実践高へ進学。高校1年時、第15回(84年)春の高校バレー3位、高2年の第16回(85年)大会は準優勝。同年、高3年で全日本入り。W杯で国際大会デビュー。
 86年、当時実業団のトップチーム日立へ入団。89年のW杯直前、ひざの半月板損傷、右足首じん帯断裂の大けがを経験。1988年ソウル五輪、92年バルセロナ五輪、96年アトランタ五輪と3大会連続で出場。日本を代表するスーパーエースと言われた。94年7月、プロ選手を目指して辞表を提出。一度は説得されて撤回。同年10月、世界選手権に出場。11月、Vリーグ発足の翌日、当時センターとして日本代表の吉原知子とともに日立を解雇される。
 95年1月、イタリア・セリエAのアンコーナと契約。日本人初のプロ選手となる。同年5月に帰国後、東洋紡とプロ契約。Vリーグでプレー。97年3月、現役引退。 
現在はスポーツキャスター、タレントとしてテレビや舞台などで活躍。

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