ウルグアイ、南米を制した偉大なチームの可能性

今後も成長し続ける可能性を秘めている

 タバレスは20年も続いた苦しい状況から抜け出すには最適な監督だった。大会前、国内メディアと多くのファンはベレス・サルスフィエルドで大きな成功を収めたサンティアゴ・シルバを招集すべきと圧力を掛けた。しかし、タバレスは今まで常に呼び続けてきた4人のFW(フォルラン、スアレス、エディンソン・カバーニ、セバスチャン・アブレウ)にこだわった。何年もかけてこのグループを作り上げてきた彼は、彼らの技術とチームに与える影響力が欠かせない要素だと考えたからだ。

 シルバの能力を否定するつもりはない。彼をほかの4人とともに招集することもできただろう。だが、サッカーはチームスポーツであり、常にベストの11人がプレーしなければならない。そして同じようなタイプのFWを多数招集した一方、ゲームの組み立て役はほとんど呼ばなかったアルゼンチン代表のセルヒオ・バティスタ監督のように、各ポジションのバランスを崩してはならないのだ。

 タバレスは大会が開幕して間もなくカバーニをケガで失い、昨年のW杯で用いた4−3−3から、フォルランとスアレスを2トップとする4−4−2への変更を強いられた。だが、パラグアイとの決勝では、2−0で勝っている状況にもかかわらずDFや守備的MFを増やさず、サイドMFのアルバロ・ペレイラに代えてけがが完治したカバーニを投入した。わずかな時間ではあったものの、本来の形である4−3−3に戻したのだ。結果としてチームは2点のリードを保っただけでなく、カバーニのサイドチェンジからスアレスが頭で落とし、最後はフォルランの素晴らしいフィニッシュで締めた見事なカウンターによってスコアを3−0に広げたのだった。

 丸1年にわたり代表でのゴールから遠ざかっていたフォルランに焦る様子はなかった。カバーニの離脱により、彼は自分がスアレスとMF陣のサポート役を務めなければならないと理解し、その役割を難なくこなしてみせた。そのためにゴールから遠ざかることも厭わずチームプレーに徹した結果、彼のゴールは最後の最後で現れるべき時に現れた。それは、彼のようなクラック(名手)にふさわしい復活劇だった。

 これらの理由をもってウルグアイは南米で正当なチャンピオンになった。さらにこのチームは、2014年のW杯・ブラジル大会出場へ向けた南米予選を通して今後も成長し続ける可能性すら秘めている。

 ウルグアイの成功は決して偶然ではないのだ。

<了>

(翻訳:工藤拓)

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著者プロフィール

アルゼンチン出身。1982年より記者として活動を始め、89年にブエノス・アイレス大学社会科学学部を卒業。99年には、バルセロナ大学でスポーツ社会学の博士号を取得した。著作に“El Negocio Del Futbol(フットボールビジネス)”、“Maradona - Rebelde Con Causa(マラドーナ、理由ある反抗)”、“El Deporte de Informar(情報伝達としてのスポーツ)”がある。ワールドカップは86年のメキシコ大会を皮切りに、以後すべての大会を取材。現在は、フリーのジャーナリストとして『スポーツナビ』のほか、独誌『キッカー』、アルゼンチン紙『ジョルナーダ』、デンマークのサッカー専門誌『ティップスブラーデット』、スウェーデン紙『アフトンブラーデット』、マドリーDPA(ドイツ通信社)、日本の『ワールドサッカーダイジェスト』などに寄稿

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