スコールズの引退

 シーズンの終わりには、常に別れが待っている。大多数の者にとっては予期しない形で、しかし一部の者は伝説的な花道とともに。ポール・スコールズは17年間にわたるマンチェスター・ユナイテッド(マンU)での選手生活を、自ら終えることにした。最後の試合での15分間のプレーは敗北に終わった。しかし、相手は地球上で最も素晴らしいチームであるバルセロナなのだ。スコールズの最後のゲームとしては、ふさわしい舞台だったと思う。

 チャンピオンズリーグ(CL)決勝でメッシとともに傑出したプレーを披露したシャビは、終了のホイッスルとともに喜びを押さえて、スコールズをいたわった。シャビはスコールズのプレーを「参考にしている」と言い、36歳のMFに敬意を表したのだ。ジダンのコメントも印象深い。
「わたしのキャリアにおいて後悔があるとすれば、スコールズと一緒にプレーできなかったことだ。彼がなし得たすべてのことは達成困難で、何でもできるプレーヤーは希有(けう)だが、彼はそうだった。わたしはスコールズのプレーを見て退屈することがない」

 676試合、マンUでは4番目のキャップ数である。スコールズがファーガソン監督に引退の意向を伝えた時、監督はシーズン中にそのことを話さないように言ったそうだ。CL決勝を前に、チームが混乱するのを避けたかったようだ。スコールズが引退について話したのは家族と親しい友人だけで、公にしたのは試合の後だった。ウェンブリーで敗色濃厚となった時、ファーガソン監督はスコールズを大舞台のピッチに送り込むことで、敬意を表したのだった。
“ジンジャー・プリンス(ショウガの王子)”は愛するオールダム・アスレティックで引退するのではないか、といううわさが数年前にあった。オールダムへの愛情が知られたのは2002年のワールドカップの時だ。札幌での試合、対戦相手のアルゼンチンの記者がこう尋ねた。「あなたの尊敬する選手は誰ですか?」。この時、多くのアルゼンチン記者が期待していたのは「ディエゴ・マラドーナ」という答えだった。そうでなければ、望ましい回答ではないけれども「ペレ」も予想できた。
 ところが、間髪入れずスコールズが口にした選手名は「フランキー・バーン」であった。質問者の困惑を見て、スコールズは続けた。
「リーグカップで6得点したんだ。オールダムvs.スカボローさ。知っています?」

 ギグス、ネビル兄弟、ベッカム、そしてカントナらとマンUでの輝かしいキャリアをスタートさせたスコールズは、イングランド代表としても66試合でプレーしている。しかし、代表キャップはその気になれば100を超えていただろう。エリクソン監督はスコールズを左サイドで使うというミスを犯し、スコールズは代表でプレーする意欲を失ってしまった。その後、カペッロ監督が復帰を求めたが、スコールズは応じていない。マンUでは10回のリーグ優勝、CLも2度制覇、FAカップも3度取った。

 栄光に包まれたマンUでのキャリアだが、いくつか残念な出来事もあった。最大は99年CL決勝に出場停止でプレーできなかったことだ。このシーズン、マンUはトレブル(3冠)を達成したのだが、最後の大逆転劇に彼は含まれていなかった。
 何回かレッドカードも受けていて、先月のFAカップ準決勝(マンチェスター・シティ戦)でも退場になっていた。代表戦でも99年のスウェーデン戦で退場になった。ウェンブリーでレッドカードをもらったイングランド代表選手はスコールズだけだ。昨年、アーセナルのベンゲル監督は「彼にはダークサイドがある」と評している。もちろん、マンUへの多大な貢献と比べれば小さな欠点ではあるけれども。

 スコールズはマンUのコーチとしてクラブに残る。まだ役割ははっきりしていないが、将来は監督への道を歩むようだ。

<了>
  • 前へ
  • 1
  • 次へ

1/1ページ

著者プロフィール

1965年10月20日生まれ。1992年よりスポーツジャーナリズムの世界に入り、主に記者としてフランスの雑誌やインターネットサイトに寄稿している。フランスのサイト『www.sporever.fr』と『www.football365.fr』の編集長も務める。98年フランスワールドカップ中には、イスラエルのラジオ番組『ラジオ99』に携わった。イタリア・セリエA専門誌『Il Guerin Sportivo』をはじめ、海外の雑誌にも数多く寄稿。97年より『ストライカー』、『サッカーダイジェスト』、『サッカー批評』、『Number』といった日本の雑誌にも執筆している。ボクシングへの造詣も深い。携帯版スポーツナビでも連載中

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント