戦士はペペを呼ぶ
ケープレル・ラベラン・リマ・フェレイラ、ペペと呼ばれている選手が生まれたのはブラジルの中規模都市マセイオだった。この街が一般的なブラジルの都市と違っていたのは、ファベイラもなければカーニバルもなく、何と言ってもプロサッカーチームがなかったことである。ゆえに、ブラジルにしてはサッカー熱が低かった。もう1つ、ハンディになっていたのは名前。ケープレル(ケプラー)は有名な科学者の名前だが、どういうわけか地元の子供たちにはまったく発音できず、ケープレルは“ペピーニョ”(きゅうり)と呼ばれるようになった。
ペペはやがてティーンエージャーに混ざってサッカーに興じるようになるのだが、実はまだ8歳だった。毎回のように家へ帰るように言われたが、ペペは帰らずにプレーを続け、肉体的な痛みにも耐えて泣かなかった。よりタフになるために、帰宅後数時間はタックルの練習をした。ヒザをすりむいて血が出るまでやめなかったという。13歳の時には、地元のナポレスというクラブでプレーするようになり、クリスマスの大会でスカウトの目をひくことになった。
その地方では最高のアカデミーであるクルーベ・レガタス・ブラジルがペペを受け入れ、そこでセンターバックとしてプレーする。当時のニックネームは“威嚇者”というブラジル選手には珍しいものだ。センターバックでコンビを組んでいたパウロ・ジョルジュは当時を振り返って、次のように話している。
「ある日、試合中に相手のFWがおれの方ばかりに来るんで、なぜだと聞いたら、ペペの近くにいたくないと言うんだ。壊されるのを恐れていたんだ」
身体能力が武器になると考えたペペは、父親が考案したトレーニングを海岸でこなすようになった。2、3キロの重りをつけ、足を上げて跳ねなければ息ができない深さを走った。こうした特訓が実り、ポルトガルのクラブであるマリティモへの移籍が決まった。技術的な欠点は明らかだったが、ペペの言葉を借りれば「誰も完ぺきではない」のだ。
マリティモで3シーズンプレーした後、ついに彼はポルトへ移籍した。そのころポルトガル代表の監督だったルイス・フェリペ・スコラーリは、ペペにポルトガル国籍を取得するように勧める。ブラジル代表の方はペペには興味がなかったようだ。ポルトガル人の女性と結婚したペペは、ポルトガル人のアクセントで話すようになる。ブラジル人のポルトガル語ではなく。リエジソン、デコといった元ブラジル人のポルトガル代表選手と違って、ペペは完全なポルトガル人を目指した。このあたりの割り切りと、チームへの忠誠心は彼ならではだ。
2007年、3000万ユーロ(約50億円/当時)でレアル・マドリーに移籍したシーズン、レバンテ戦でこんなエピソードがある。ペペは試合中、相手にこう言ったという。
「おれに触るなよ。おれに触れば、どんな仕打ちが待っているか分からないぞ。このレアル・マドリーのジャージは、お前らが見ることさえも許されないのだ」
09年4月21日のヘタフェ戦でのこと。その時点のスコアは2−2だった。ヘタフェのカスケロに対して、ペペはペナルティーエリアの中でファウルをした。このファウルによって、ヘタフェにはPKが与えられ、それが決まってしまえばレアル・マドリーはタイトルを取り逃がす。そう思った瞬間、ペペは地面に倒れているカスケロを蹴り、さらに踏みつけて歩いていった(ペペは退場処分となり、その後10試合の出場停止となった)。
カスケロは「なぜ、あいつがそうしたかって? 簡単なことさ、ヤツがゴミだからだ」と説明したが、“スペシャルワン”の見解はヘタフェのキャプテンとは異なっていた。
「ペペがいれば、われわれのブロックは強固だ。ペペがいれば、われわれのチームは背後にスペースを残すことを恐れずに前進できる。ペペがいれば、われわれはより早くボールを取り戻すことができる。ペペがいれば、わたしのチームのバランスはベターだ。ペペがいれば、レアル・マドリーはより良いプレーができる」
モリーニョ監督の説明で、なぜペペが400万ユーロ(約4億6000万円)の年俸を受け取っているのか、理解していただけただろうか。
<了>
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