兄弟の決勝対決

 ヨーロッパリーグ(EL)決勝はポルトvs.スポルティング・ブラガというポルトガル同士の対決だった。こうした同国対決はチャンピオンズリーグ(CL)やELといったUEFA(欧州サッカー連盟)主催の大会では14回あるが、ポルトガル勢同士は今回が初めて。スペインとイタリアは5回ずつあり、イングランド対決が2回、ドイツは1回あった。

1965−66シーズン インターシティーズ・フェアーズカップ バルセロナvs.サラゴサ(0−1、4−2)

 現在のELの前身がUEFAカップ、その前はフェアーズカップである。レアル・マドリーが初期のチャンピオンズカップ(CLの前身)を独占する一方、フェアーズカップはバルセロナを中心としたスペイン勢がタイトルをほぼ独占していた。
 61−62シーズンにバレンシアが最初の同国決勝でバルセロナに勝って優勝すると、その2年後にはサラゴサがバレンシアを下して優勝。この時点でスペインから4つの大陸王者が誕生した。
 そしてまた2年後、今度はバルセロナがサラゴサを破って3回目のフェアーズカップ優勝を成し遂げた。ホームでの試合に0−1と敗れた後、アルゼンチン人のロケ・オルセン監督に率いられたバルサは4−2でアウエーゲームを制している。

1971−72シーズン UEFAカップ トッテナムvs.ウォルバーハンプトン(2−1、1−1)

 スペイン支配の時代が終わると、イングランドがフェアーズカップを支配する。60年代後半にはリーズが2度優勝、ニューカッスル、アーセナルもトロフィーを獲得する。71−72シーズンにフェアーズカップがUEFAカップに改称されると、初のイングランド対決の決勝となった。
 同大会の常連になるトッテナムと古豪ウォルバーハンプトンの激突は、いにしえの“キック&ラッシュ”戦法を踏襲するトッテナムが勝利した。トッテナムのGKは伝説のパット・ジェニングス。北アイルランド代表として64〜86年の22年間、119試合に出場している。

1979−80シーズン UEFAカップ メンヘングラッドバッハvs.フランクフルト(3−2、0−1)

 準々決勝に残ったドイツのクラブは5つ、準決勝に4つ、必然的に決勝はドイツ対決となった。当時、メンヘングラッドバッハはヨーロッパで最も美しく、強いチームの1つだった(75−76、79−80シーズンのUEFAカップで優勝)。同時に不運なチームでもあり、EL、CLにおいて、偉大なリバプールに2度優勝を阻まれていた。
 アラン・シモンセン、ライナー・ボンホフといった偉大な選手を擁した時期は過ぎ、79−80シーズン決勝でプレーしたのはまだ若いローター・マテウス、クリスチャン・クーリック、エヴァルト・リーネンといった選手たち。戦力的にはフランクフルトより優位だったが、ホームで3−2と勝った後、アウエーで0−1と敗れ、優勝できなかった。フランクフルトは唯一のUEFAカップのトロフィーをこの年に獲得している。

1990−91シーズン UEFAカップ インテルvs.ローマ(2−0、0−1)

 90年代はイタリアの時代である。89〜99年の11年間で8つのUEFAカップがイタリアに渡っている。イタリア同士の決勝も4回を数えた。メンヘングラッドバッハ時代に決勝でプレーしたマテウスは、今度は90−91シーズンにインテルの中心選手として登場している。
 マテウスのほかにもクリンスマン、ブレーメがインテルでプレーし、ローマにはフェラーとベルトルトがいた。外国人選手でドイツ人でないのは、ローマのアウダイール(ブラジル)だけだった。

1994−95シーズン UEFAカップ パルマvs.ユベントス(1−0、1−1)

 まだCLが1カ国につき1チームの時期だった。このシーズンに優勝したアヤックスは、決勝でミランを倒すだけで良かったわけだ。この年のコッパ・イタリア決勝はパルマvs.ユベントス。セリエAはユベントスが1位で3位がパルマ。この2チームはミランより強かったのだ(ミランは4位)。
 UEFAカップもジャンフランコ・ゾラを中心とするパルマと、ビアリ、ラバネッリ、バッジョのユーベとの決勝となり、パルマが勝った。

1997−98シーズン UEFAカップ インテルvs.ラツィオ(3−0)

 フェアーズカップの創設以来、初めて一発勝負の決勝となったのがこのシーズン。試合はパリのパルク・デ・プランスで行われている。ワールドカップ・フランス大会を目前にしてのテストでもあり、インテルは90−91シーズンの決勝でローマを下して以来、またも首都のクラブであるラツィオとの対戦となった。
 インテルはサモラーノ、サネッティ、ロナウドの3ゴールで快勝。同シーズンの2月にはセリエAでラツィオがインテルに3−0で勝っていたのだが、そのリベンジを果たしたことになる。

1999−2000シーズン CL レアル・マドリーvs.バレンシア(3−0)

 予備戦から参戦していたバレンシアは、準々決勝でラツィオに、準決勝でもバルセロナに共に2試合合計5得点ずつを挙げていた。メンディエタを中心とする素晴らしい中盤を擁したバレンシアは優勝候補だった。
 しかし、ラウル&モリエンテスが偉大なクラブの底力を発揮し、97−98シーズンから01−02シーズンまでの5シーズンで3回の優勝を成し遂げることになるレアル・マドリーが勝利、FIFAから20世紀最高のクラブとして表彰された。

2002−03 CL ミランvs.ユベントス(0−0 PK3−2)

 ミランにとっては甘美なシーズンだった。準々決勝でアヤックスを下して94−95シーズンの借りを返し、準決勝ではローカルライバルのインテルを下す。そして決勝では80年代以降、ミランと並ぶ最強クラブだったユベントスに勝ったからだ。
 試合自体は退屈極まりないもので、居並ぶ名手たちの才能があったにもかかわらず、0−0でPK戦へ。3人も外したユベントスが勝てるはずもなく、ミランが優勝。

2006−07 UEFAカップ セビージャvs.エスパニョル(2−2 PK3−1)

 前年にミドルスブラ(イングランド)を破ったセビージャが、今度は同国のエスパニョルを下して連覇を達成した。エスパニョルは87−88シーズンにレバークーゼンに敗れて以来の挑戦だったが、優勝の夢はかなわなかった。

2007−08 CL マンチェスター・ユナイテッドvsチェルシー(1−1 PK6−5)

 ロマン・アブラモビッチの投資で強化してきたチェルシーにとっては、その集大成となるはずだった。会場のモスクワはアブラモビッチの故郷であり、舞台も整っていた。
 モリーニョ解任後に監督に就任したアブラハム・グラントはチームを良い状態に保っており、チェルシーのチャンスは十分と見られていた。
 しかし、PK戦でジョン・テリーが軸足を滑らせて失敗、入っていれば優勝のチャンスを逃してしまった。栄光と敗戦は実に紙一重だった。

<了>
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著者プロフィール

1965年10月20日生まれ。1992年よりスポーツジャーナリズムの世界に入り、主に記者としてフランスの雑誌やインターネットサイトに寄稿している。フランスのサイト『www.sporever.fr』と『www.football365.fr』の編集長も務める。98年フランスワールドカップ中には、イスラエルのラジオ番組『ラジオ99』に携わった。イタリア・セリエA専門誌『Il Guerin Sportivo』をはじめ、海外の雑誌にも数多く寄稿。97年より『ストライカー』、『サッカーダイジェスト』、『サッカー批評』、『Number』といった日本の雑誌にも執筆している。ボクシングへの造詣も深い。携帯版スポーツナビでも連載中

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