野球への情熱が伝わってきたオリックス・小瀬選手
『小瀬ヒット』と関西学生リーグでは呼ばれていた。当時、近大のリードオフマンを務めていた小瀬浩之はゴロさえ転がせば、一二塁間、二遊間、三遊間といった野手の間への打球は当然のことながら野手の正面であっても“大半”がヒットになった。人工芝球場の南港中央球場での開催試合であったら、それは“大半”から“ほぼ”に変わった。それくらい小瀬のスピードは秀逸だった。また、単に足が速いだけではなく、打席で体勢を崩されても粘り強くボールに食らい付く。そして、たくみに広角へ打ち分けるバットコントロールも抜きん出ていた。敢えて粗を探すとすれば、外野手としては実に平均的なスローイング(肩の強さ)くらいだろう。
取材していた思い出で、真っ先に頭に浮かんで来るのは彼が大学2年生の秋。明治神宮大会で九産大に延長戦の末、サヨナラ負けした時のことである。サヨナラヒットの打球を処理したのはセンターを守っていた彼で、バックホームの返球が指先に引っ掛かってしまった。仮に指先に引っ掛かることがなかったとしてもサヨナラ打になっていたはずだ。それでも、彼は試合後、一塁側ダグアウト裏で嗚咽(おえつ)をもらし続けていた。晩秋の冷たいコンクリートの床にひざを突き、1時間以上も細身な背中が大きく揺り動いていた姿から彼の野球への情熱が伝わって来たものである。
次に思い出すのは彼がいつも首から下げていたお守り袋。
「前の日まで普通に元気やったんですけれどもね」
大学2年生になる直前、母・啓子さんが心筋梗塞(こうそく)で急逝してしまった。
「僕の活躍を誰よりも楽しみにしていたのがオカン。苦労しながらも野球を続けさせてくれた。ホンマは家をプレゼントしたかったんですけれども。でも、僕は絶対にプロ野球選手になって、オカンに立派なお墓を建ててみせます」
お守り袋に最愛の亡き母の遺歯を忍ばせてプレーしていた。そして、念願のプロ野球選手になる。人づてだが、お母さんのお墓も建てたと聞いている。せやけど、そのお墓に一緒に入るんはまだまだ早過ぎたんちゃうんか。そこでは自慢のスピードを封印してほしかったわ。ホンマに………。
1年前に「僕、寮を出たんですよ。家は島尻さんのメッチャ近所っす。メシ行きましょうね」とプロ野球選手になった彼は大学時代と何一つ変わらないノリで話し掛けて来てくれたが、その約束はもうかなうことがない……。
人生を疾走した分、ゆっくり休んで下さい。合掌――。
<了>
1985年9月2日生まれ。大阪府出身。180センチ、73キロ。右投左打。背番号41。尽誠学園高−近大−オリックス。尽誠学園高2年春のセンバツ出場で8強に進出。近大では最優秀選手1回、首位打者2回、ベストナイン3回を獲得し、通算100安打(通算104安打)を達成した。2007年大学生・社会人ドラフト3巡目でオリックスに入団。左打席からのシュアな打撃と俊足を武器に、ルーキーから1軍に出場し、58試合で打率2割6分2厘。昨季は78試合に出場して198打数60安打、打率3割3厘の成績を残した。プロ通算は136試合、94安打、1本塁打、30打点、打率2割8分7厘、14盗塁。享年24歳。
- 前へ
- 1
- 次へ
1/1ページ