“最強サウスポー”大林から“絶対エース”栗原まで=女子バレー最強アタッカー列伝
世界が恐れた“モトコスペシャル”
80年代後半に、新星のごとくあらわれた大林素子。得意のブロード攻撃は、“モトコスペシャル”と呼ばれて、各国に恐れられた 【Photo:Shinichi Yamada/AFLO】
72年ミュンヘン五輪で銀メダルを獲得した後、一時は現役引退するも、翌年復帰。74年世界選手権、76年モントリオール五輪では、いずれも日本の金メダル獲得に貢献した。さらに、77年にワールドカップで優勝し“世界三冠”を達成。引退から12年後のの2000年には日本女子として初めて殿堂入りを果たしている、バレー界の偉人だ。
80年代後半、女子バレー界にすい星のごとく現れた大林素子。明るい笑顔とトレードマークのポニーテールで多くのファンを魅了した。182センチの長身とサウスポーから繰り出されるスパイクは切れ味鋭く、コートの右端から左端まで走り抜けて打つブロード攻撃は“モトコスペシャル”とも呼ばれ、世界中の選手たちから恐れられた。
大林は全日本のエースとして活躍し、88年ソウル、92年バルセロナと2大会連続で五輪に出場。一方で、94年にはプロ化をめぐる騒動で、当時所属していた日立を解雇されるなど世間を騒がせた。しかし翌年には、日本人初のプロバレーボール選手としてイタリア・セリエAと契約。96年アトランタでは自身3度目となる五輪出場も果たした。
斎藤と山内、才色兼備のアタッカー
80年代後半から90年代前半にかけて活躍した斎藤真由美。そのキュートな笑顔も人気を呼んだ 【Photo:Atsushi Tomura/アフロスポーツ】
デビュー当時からボーイッシュな短髪とキュートな笑顔で人気を博した斎藤は、88年に弱冠16歳でソウル五輪の第1次候補選手に選出されると、翌年のワールドカップで華々しく全日本デビュー。同年の日本リーグ(Vリーグの前身)ではイトーヨーカドーの初優勝に貢献し、最年少でリーグMVPに選ばれた。
しかし、その後は度重なるけが、交通事故、所属チームの解散など、相次ぐ不運に見舞われ、全日本からは遠ざかった。結局五輪には一度も出場できなかったが、「記録よりも記憶に残る選手」として、今なおバレーファンに愛されている。
一方、山内は日本人離れした高さから繰り出されるバックアタックを武器に全日本のエースへと成長し、92年バルセロナ、96年アトランタと2度の五輪で活躍。所属していたダイエーでは、95年第1回Vリーグ(現・プレミアリーグ)の初優勝に貢献し、その後リーグ初のプロ契約選手にもなった。さらにプレーだけでなく、182センチの長身で短髪、そしてクールな笑顔と抜群のスタイルで世の注目を浴びた。
成長し続ける“絶対エース”栗原
今大会も全日本代表としての活躍が期待される栗原恵 【スポーツナビ】
日本女子が初めて五輪出場を逃したシドニー五輪予選のメンバーだった高橋は、主将を務めた02年世界選手権でも過去最低の成績(13位)に終わり、「日本バレー衰退」の責任を負わされた。しかし、柳本晶一監督就任後にライトへコンバートされると、その才能を開花。04年アテネ五輪最終予選で大活躍し、2大会ぶりの五輪出場に貢献した。その後、05年ワールドグランプリで本来のレフトに戻ると、この大会で得点王を獲得。スコアラーとして確たるポジションを築き、同年にはイタリア・セリエAへの挑戦も果たした。08年の北京五輪後に、競技の一線からは退いている。
03年のワールドカップで代表デビューした栗原恵は、衰退しつつあった女子バレー界にとって、まさに救世主だった。同じ年の大山加奈とのコンビは“メグカナ”と名付けられ、2人はバレー人気復活の立役者となり、日本を2大会ぶりの五輪出場へと導いた。
しかし、栗原はアテネ五輪後に当時所属していたNECを退団し、パイオニアへ電撃移籍。規約により、1年間はリーグ戦に出場できないという不遇の時を過ごした。その後はけがも重なり、一時は全日本から離れたが、07年に復帰。08年北京五輪では、全日本のエースとして2大会連続の5位入賞に貢献した。今年で25歳となった栗原は、心身ともに成長した今、誰もが認める“絶対エース”として活躍が期待されている。
<了>
- 前へ
- 1
- 次へ
1/1ページ