御厨貴文、Jリーガーからプロ審判への道 「サッカー選手の価値を高めたい」
15年に現役引退した御厨貴文は、働きながらプロフェッショナルレフェリーを目指している 【J論】
冒頭に掲げた写真は、16年3月7日に小平グランドで撮影したものだ。御厨さんは現在3級審判で、笛を吹ける試合は都道府県単位のものまで。練習試合でJリーガーを相手に試合をさばく姿が公式戦のピッチで再現される日は、そう遠くないのかもしれない。
御厨さんはいま、株式会社山愛キャリアサポート事業部に所属している。同社を訪れると、同僚の藤井頼子さんとともに、業務内容を説明してくれた。
プロ加入時の目標が現実となる
シーズン中にJ2、J3の各クラブを回り、開催しているセミナーでは、引退してから慌てて第二の人生を考えるのではなく、現役中からキャリアに向き合えるような思考力を鍛えている。ほかのスタッフがセミナーの前半を担当、後半で御厨がOB講師として教鞭(きょうべん)を執り、現役経験のうち、こういったところが社会に出たときに生きている――という話をするケースが多いようだ。単なる就職斡旋(あっせん)ではなく、自活能力を備えさせることが目標だという。
長崎の海星高校出身。高校選手権の県予選決勝で国見高校に敗れ、国見出身の選手だけには負けないと大学に進んだときには、将来Jリーガーになるとは考えもしなかったという。しかしセレッソ大阪との練習試合で「プロでも通用する」との確信を得た御厨さんは大学4年間をかけて頭角を表し、卒業時には複数のJクラブから声がかかるまでになった。転機は甲府の練習試合だった。当時甲府のコーチで、現在FC東京のコーチングスタッフである安間貴義は当時を振り返ってこう言う。
「大阪体育大学が練習試合に来たときがあるのですが、相手のディフェンダーが空中戦で須藤大輔よりも頭ひとつ高く飛び、競り勝っていたんです。なんだこいつは、すごいな、と」
大木武監督(当時)が「おまえ、やりたいか」と声をかけた。Jリーガーとしての人生が始まった瞬間だった。
御厨さんは目標を立てていた。
「まず、30歳までやろうと決めていました。そう決めていたからこそ、実際に30歳までプレーできたのかもしれません」
安間コーチと居残りで練習に励み、チャンスを待った。加入1年目の07年限りで大木監督が去り、安間体制が終わる09年まで御厨さんは甲府に所属した。9時半から全体練習を2時間半、そこからが本番の「安間塾」で、午後3時まで延々と練習していた。初年度は天皇杯1試合に出場したのみだったが、09年はリーグ戦13試合に出場。ここで地力をつけた御厨さんは、その後の草津と富山での5年間、コンスタントに先発出場するようになる。
「28歳くらいから何をやるのか、ちょっとずつ考えていました。31歳を富山で迎えて次の契約ももらっていましたが、一回、自分でリセットしようと思ったんです。そのとき相談した人々の1人に、プロフェッショナルレフェリーの名木利幸さんがいました。そして審判の実際をいろいろと尋ねるうち、これは目指すだけの価値があると思い、レフェリーになろうと決めたんです。Jクラブからお話をもらったときには心が揺らぎそうになりました――それらのチームはセンターバックが不足しているようだったので――けれども、そのときはもう審判になると決めていました」