【道標 Vol.2】オト・ナタニエラ

東芝ブレイブルーパス東京
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【道標 Vol.2】オト・ナタニエラ

【東芝ブレイブルーパス東京】

東芝ブレイブルーパス東京では、ファンの皆さまにクラブの歴史・カルチャーをより知っていただくために、ライターの田村一博さんにご協力いただき、様々なレジェンドOBにインタビューを実施していきます。


46歳になっても走っている。
そして、いまも泣く。仲間と杯を傾ける。
ミスター東芝のひとり、オト ナタニエラは、「ネラ」の愛称で慕われる。いつもやわらかな表情でいいことを言う。

トップリーグ発足の2003年度から2013年度シーズンまで東芝ラグビーを体現した。
その間にトップリーグを5回制し(マイクロソフトカップ優勝、順位決定戦1位含む)、日本選手権での優勝も3回。黄金時代を支えた。
現在も資材部門で調達の仕事に就いている。

トンガ出身。ニュージーランドの高校を経て、兄・ロペティさんの背中を追って大東大へ進学する。CTB、WTBとして活躍した。
東芝に入ったのは大学4年時に試合を見た際、チームが上昇しそうと感じたからだ。

「大学2年、3年の時にも試合を見ました。その頃はあまり強くなかったのに(東日本社会人リーグで、それぞれ8チーム中5位と4位タイ)、その時は選手が楽しそうで、強くなりそうな雰囲気を感じました。薫田さんの(監督)1年目でした」

実際、その年にチームは日本選手権準優勝。トップリーグが発足した2003年から毎年、日本選手権優勝やトップリーグ制覇など黄金時代を築く。
入団直後は試合出場数も限られた。しかし、2005年に帰化して日本国籍を取得すると、ピッチに立つ時間は長くなっていった。

兄から「日本で生きていこうと決めているなら社員として頑張った方がいい」とアドバイスを受け、働きながらプレーする道を選んだ。東芝はその思いを受け入れ、社員として責任を与え続けてくれたと感謝する。

期待に応えようと、自分自身も真剣に向き合った。ラグビーと仕事の両立は簡単ではない。「職場で眠くなることもありました」と回想する。
「でも、職場の人たちのサポートもあり、頑張れました。新入社員向けの講師を任されたこともあります」


【東芝ブレイブルーパス東京】

2013年9月27日におこなわれたリコー戦でトップリーグ通算100試合出場に到達した。当時、海外出身から帰化した選手の中で、そのステイタスに到達したのは初めてだった。
その日の表彰式では、スタンドに当時の職場(技術情報システム部)の人たちが持つ横断幕があった。

12の日本代表キャップ持つ。
大東大時代から手にしたサクラのジャージーを着る機会は東芝3年目からさらに増え、2007年のワールドカップまで世界の舞台で戦った。
173センチの身長に100キロ近い体重で、WTB、CTBとして弾丸のように走った。
ラストシーズン、FLに転向しても頼りになった。

走る、泣く、そして酔う。現役時代は、その繰り返しだった。
ポジションに関係なく、いつもハードプレーに徹した。きつかった練習をよく覚えている。
「陸上部のようにグラウンドを走ったあとにコンタクトの練習が待っていました。走るのは嫌いだけど、ぶつかるのは大好きでしたから、私に合う練習で助かりました。毎日が試合のように激しかった」

涙は勝ってあふれ、悔しくて流した。
ただ、黄金期を作り、優勝した喜びより、負けたことや苦労してプレー機会をつかんだことばかり覚えている。
「一度、トップリーグで優勝したのに、いろいろあって日本選手権に出られなかったことがありました。でも、あの時、チームはバラバラにならず、それまで以上にまとまった」
いい仲間たちといるとあらためて思い、涙が出た。

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晩年にFL転向となった時、どうやって信頼を得ようかと考えたことも忘れない。当時のFWコーチからは、(身長が低いため)ラインアウトのオプションにならない理由で、なかなか前向きな評価をもらえていなかった。

そんな状況に、「自分の仕事は何かと見つめ直して、タックルやボールキャリーの質を上げました」と振り返る。
Bチームの試合に出て、21タックルすべてを成功させた。自分でつかみとった出場機会。ラストシーズンも6試合に出た。

体を張り続けた日々を支えてくれたのは、仲間と語らう夜の街での時間だった。勝っては街に繰り出し、負けても飲んで話す。それがエナジーとなった。
「同じ時代を過ごした選手なら、誰に聞いても答は一緒だと思います」

土曜に公式戦を終えた後、飲みに行って帰る途中、コーチと会った。「ごめん明日の(練習)試合に出てほしいんだけど」と言われ、シャワーを浴びて酔いをさましたこともあった。

【東芝ブレイブルーパス東京】

冒頭に、現役時代と変わらず、いまも走り、泣いて、飲むとしたのは、2024-25シーズンもトップイーストリーグ、クリーンファイターズ山梨の一員に名を連ねているからだ。北府中駅近くの自宅から、電車で練習に向かうこともある。
そして、ブレイブルーパスの試合にも頻繁に足を運び、いろんなシーンで目を潤ませ、仲間と盃を酌み交わしている。

ブレイブルーパスが14年ぶりに国内王者となった2023-24シーズンは、何回もスタジアムに応援に行った。職場の人たちやラグビー部OBと声援を送った。「応援と飲むのはセットだよね」と笑う。

国立競技場での埼玉パナソニックワイルドナイツとの決勝も観戦した。ヒリヒリするような展開(24-20)を制して後輩たちが頂点に立った。
「強い東芝が戻ってきたな、と嬉しかったですね。久しぶりすぎて、どう喜んでいいかわからなかった。ただ、そう思いながらも優勝の瞬間、涙がボロボロ出たんですよ」

勝つ、っていいな。
そう思ったのは、スタジアムにいた時だけではなかった。
「府中のコンビニで、初めて会うおじさんに『優勝おめでとうございます』と話しかけられました。涙が出そうになりました。私のことも覚えていてくれた。スーパーでも取引先の方と会うと、おめでとうと。チームを支えてくれる人たちは、いろんなところにいます。それがあらためて分かりました。アイラブ東芝の方がたくさんいます」

大きな舞台で、多くの人の前でプレーするとは、そういうことだ。見つめる人を感動させ、いつまでも記憶に残る。
アスリートとして、それ以上に幸せなことはないだろう。

優勝は、嬉しいことをいろいろ運んでくれる。
現役選手たちと話して感じたのは、時代は変わったよなあ、と思っていた頃もあったのに、引き継がれているチームカルチャーがしっかりと残っていることだった。

「勝って当たり前が東芝の文化でした。しかし勝てない時間も長かった。もう一度勝つ文化を取り戻してほしいと思っていました。いろいろ考え方も変わったのかな、と思っていましたが、選手たちと話すと、ひたむきで、負けず嫌いな選手が多い。私たちの頃と似ているな、と。そして、みんなラグビーが好き。それが嬉しいですね」

これからも自分でプレーを続け、応援に足を運ぶ日々を続けるそうだ。
「私からラグビーを取ったら自分じゃない」と、さらっと言う。
まだ足りないのではなく、やり切った人だから、そう言える。



(文中敬称略)
(ライター:田村 一博)

【東芝ブレイブルーパス東京】

次のホストゲームは、第8節:2/15(土)14:05より、秩父宮ラグビー場にて東京サンゴリアスと対戦します。
14:05キックオフとなりますので、ぜひ会場で皆様の熱いご声援をよろしくお願いします!!

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著者プロフィール

東芝ブレイブルーパス東京はジャパンラグビーリーグワン(Division1)に所属するラグビークラブです。日本代表のリーチマイケル選手や德永祥尭選手が在籍し日本ラグビーの強化に直接つなげることと同時に、東京都、府中市、調布市、三鷹市をホストエリアとして活動し、地域と共に歩み社会へ貢献し、日本ラグビーの更なる発展、価値向上に寄与して参ります。

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