【物語りVol.132】CTB 池永 玄太郎
【東芝ブレイブルーパス東京】
「中高一貫教育の上宮太子中学校へ入学したんですが、高校のラグビー部の監督が親父の同級生の後輩だったんです。入学式でその方から、『池永くん、入部おめでとう』と言われて。『入学おめでとう』の前に『入部おめでとう』です」
いまでも苦笑いするエピソードには、もちろん続きがある。
「それから、先輩が僕の教室に来るようになって。ラグビー部は部員が少なかったから人数を集めるのも大事やったみたいで、毎日、毎日、教室まで来るので、断れない雰囲気になって。なかば強制的に体験入部をして、そのままです。だから僕、入部届を書いてなくて。中学卒業時も高校卒業時も、先生に『池永、仮入部のまんまやで言われました』と(苦笑)」
練習に通い始めた当初は、気持ちが後ろ向きだった。
「どうやったら練習をサボれるかを、いつも考えていました。思い切りぶつかり合うとかって、日常生活でないことじゃないですか」
怖い。痛い。キツい。負の感情が列を作るが、練習へ向かう足取りは少しずつ軽くなっていく。
「チームプレーの楽しさを知った、というのかなあ。痛みとか苦しみが伴うからこそ味わえる喜びがある、というか。それはいまでもラグビーが楽しいと感じる部分ですね。あとは、前進していくのにボールを前へ投げちゃいけない。その矛盾が面白かった」
上宮太子中学ラグビー部は、池永曰く「弱小校」である。痛みや苦しみの先にある勝利の喜びは、なかなか感じることができなかった。それでも、倦むことはない。のめり込んでいった。
「負けることのほうが圧倒的に多かったけど、楽しかったですね。だからなんだろうなあ、中学から高校まで一緒やった同級生は、いまでも付き合いがあります」
中学、高校を通じて、上宮太子の選手として全国大会に出場することはできなかった。その一方で、池永は高校1年時からオール大阪と呼ばれる国体大阪代表の選考会に参加している。自チームでは10番、12番、13番でプレーし、3年時にはオール大阪で国体優勝を経験した。
「無名校からオール大阪に呼ばれているのは僕ひとりで。フィジカリティのところは全然やれるなと思いましけど、弱小校にない戦術とか考えかたに触れられたのは大きかったですね。『そうやって考えてるんや』みたいな気づきがあって面白かった。一個下に(杉山)優平がいたんですけど、もうめちゃくちゃうまかったですよ」
3年時にはU-18 TIDユースキャンプ(高校日本代表候補)にも選出されている。奇しくも東芝府中グラウンドで行なわれたキャンプに、池永は闘争心と気おくれを同時に抱えて参加した。
「同世代の名だたる選手が揃っていて、『やったろ』っていうのと、『ええっ、無理やろ』っていう思いがあって。日本代表監督のエディ・ジョーンズさんが来て、日本代表のスタッフだった沢木敬介さんがバックスを見てくれて。めっちゃ厳しく指導されて、ちょっとラグビーが嫌いになりましたけど(苦笑)、これがトップレベルなんだと思いました」
【東芝ブレイブルーパス東京】
「中学、高校のラグビー部の監督が、天理大でコーチをしている八ツ橋(修身)さんと知り合いだったんです。その関係で、天理大の小松(節夫)監督がわざわざウチの高校まで足を運んでくれて、試合も観てくれました。小松監督とお話をしていくなかで、バックスとしてうまくなるなら天理だと思って決めました」
始めて公式戦のリザーブメンバーに入ったのは2年だった。3年時もリザーブが多かった。
「天理はレベルが高く、求められるものも高い。練習しないと要求に応えられないので、スタートで出られなくても腐る理由がありませんでした。何よりも、ラグビーが楽しかったですからね」
激しい競争を乗り越えて、4年時は12番を着けて関西大学リーグや大学選手権に出場した。バイスキャプテンも務めた。「行ければ御の字かな」と思っていたトップリーグのチームから、卒業後の加入を打診された。
「神戸製鋼の練習に参加させてもらった時に、選手のみなさんが積極的に声をかけてくれて、お昼ごはんも一緒に食べたりして。選手としてだけでなく人間として一緒にいたい、と思える人たちばかりだったので、ぜひお世話になりたいと思ったんです」
19年度の新加入選手として23-24シーズンまで、トップリーグからリーグワンへまたいでコベルコ神戸スティラーズに在籍した。試合出場はかなり限られたが、池永の表情は清々しい。
「辛いことは多かったですけど、それを超えるぐらいいい思い出があります。プロとしてやっていく上で何をどうすればいいのか、ラグビーにおける姿勢を学ぶことができました。試合にはなかなか出られなかったですけど、嫌な思い出はないんです」
【東芝ブレイブルーパス東京】
「どこかのチームからお声がけいただければ続けたい。それがなければ、引退するしかない。そう考えていた時に、東芝さんからオファーをいただいて。もう即決で『お願いします』と伝えました」
かつて神戸S入りを決めたのは、選手たちの振る舞いに「自分もそうありたい」と思うことができたからだった。東芝ブレイブルーパス東京の一員となった池永は、その当時と同じ思いを抱いている。
「チームカラーが自分に合っていると言ったら上から目線になっちゃいますけど、合流してすぐにベテランのみなさんも若手も、気さくに声をかけてくれた。馴染むのに時間がかからず、居心地良くやらせてもらっています。もうホントに感謝しかないですね」
家族への感謝もある。言葉では言い尽くせないほどに。
「妻も関西で育ったので、東京に住んだことがないんです。でも、何も言わずについてきてくれました。僕が元気にラグビーをやることができているのは、いつも妻が明るく過ごしてくれていることが大きいです。妻とふたりの子ども、それに自分と妻の両親の存在は、ラグビーを続けていく心の支えですね」
2025年1月で28歳になる。ラグビー選手としてのキャリアは、円熟期に向かっていく。
「まだまだラグビーを続けたいので。運任せじゃなく3年後、5年後の未来を自分自身でつかむために、日々の練習がアピールやと思っています。もう、そこで、やるしかない」
やるしかないです、やるしかない、と繰り返した。限界までやっているのか、と自らに問いかけているようでもあった。
日々自らと向き合い、家族を思い、奥歯をグッと噛み締めて、池永は闘争心に火を点ける。今日より明日を輝かせるために。
(文中敬称略)
(ライター:戸塚啓)
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