「サッカー選手ー筋じゃなくてもいい」松本山雅FCの両利きストライカーが多様な生き方を追求する理由

チーム・協会

【写真提供:浅川隼人】

今季12ゴールを挙げ、10月20日時点でJ3得点ランク5位タイにつける松本山雅FCのフォワード浅川隼人選手。同リーグのベストイレブンにも選ばれたことがある「両利き」のストライカーだが、自らを貸し出す「レンタルJリーガー」の企画や経済困窮世帯を対象にした「移動式こども食堂」の発足でスポーツ庁などの賞を受賞するなど、実業家としての顔をあわせ持つ。通常、サッカー選手は競技人生を追求するイメージがあるが、浅川選手はあえてピッチ外で新たな道を作ることも追求しているという。なぜそのような考えに至ったのだろうか?

首の皮一枚で追い続けた夢

大学時代の浅川選手 【写真提供:浅川隼人】

「プロになる最短ルートは、クラブのジュニアユースからユースに上がり、高校卒業と同時に入団する流れです」(浅川隼人選手/以下略)。ただ、小学校の頃からJリーガーを目指していた浅川選手のプロへの道のりは“最短ルート”とはほど遠いものとなった。

中学の時、ジェフユナイテッド市原・千葉のジュニアユースへ入団したが、ユースに上がることは叶わなかった。

高校進学後もサッカーを続けるが声はかからず、大学のサッカー部へ入部。そしてその先のプロへの入団試験でついにセレクションの試験を通過した。狭き門を潜り抜け、ようやくたどり着いたJリーグ。当時J3だったY.S.C.C.横浜が開催したセレクションで唯一の合格者だったという。
小学校の頃、中村俊輔選手にあこがれて左足で練習していた右利きの浅川選手。「左で練習するうちに『両利き』になっていたことがプロになれた要因だった」と分析する。

サッカー選手の能力をピッチ外でも活かしたい

レンタルJリーガーの企画で、子どもの保育を依頼されたご家庭での記念撮影 【写真提供:浅川隼人】

2018年、Y.S.C.C.横浜で始まった悲願のJリーガーキャリアは、アマチュア契約だったために給与0でのスタートとなった。1年目はアルバイトなどで生計を立てながら練習に励んだが、公式戦の出場機会には恵まれなかった。

「チームでは試合後にサポーターのお見送りがあったのですが、観に来てくれた子どもたちは、出場していない僕のことを知りませんでした」。小学生の時に憧れた中村選手の様に、プレーで子どもたちに夢を与える姿とはほど遠いプロ生活になっていると気づいた。

「サッカーに関係のないアルバイトをするのではなく、選手としての能力を活かしたい」。そんな思いからアルバイトを辞め、SNSでサッカー指導を受けたい人を募集したところ、依頼は着実に増えていったという。「仕事も上手くいって、選手としてもJデビュー戦で初得点を挙げることができました」。別の活動をやりながら本業のサッカーで結果を出していく、浅川選手のピッチ内外をまたにかけるもう一つの“両利き”はこの時に土台が完成した。

また、サッカー指導以外にも、自分を貸し出す「レンタルJリーガー」も企画。「最大の強みであるサッカーを抜きにした場合、Jリーガーが社会に出た時の価値はどれくらいあるのか知りたいと思いました」。仕事内容も値付けも全てを依頼者にゆだねる驚きの試みはSNSで「プチバズり」をしたという。カフェでの人生相談や依頼者の自宅での子守りまでいろいろな依頼が舞い込んだ。うつ病を患い、外出ができない依頼者から「外に出るため、スポーツアクティビティを一緒に挑戦してもらいたい」との依頼もあった。移籍により実現させることができなかったが「スポーツ選手としての自分自身の力の大きさや可能性を気づかされました」
サッカー、仕事の両方が波に乗った2シーズン目は13ゴール7アシストを記録。同じJ3のロアッソ熊本からプロ契約のオファーが届いた。「チームから欲しいと求められたのは初めてでした」。

ロアッソ熊本での食堂づくりがキャリア拡充の大きな一歩に

農家に訪れトマトを自ら収穫 【写真提供:浅川隼人】

浅川選手は2020年、複数のオファーの中からロアッソ熊本への移籍を決めた。

「サッカーに取り組む環境はすごく整っていました。ただ、ロアッソには当時、練習前後に使える食堂がなく、選手は買いに行ったり、外食したりしていました。僕自身、小学生の頃の遠征試合で、揚げ物の入った弁当を食べた後にパフォーマンスが落ちる経験をして以来、食に気を遣ってきたので、これはなんとかしたいと。熊本は元々食材に恵まれている場所なので、その恩恵を最大限に活かす食堂を作りたいと考えたんです」

浅川選手は必要資金を集めるためにクラウドファンディングを実施。 食材は、自ら農家の収穫を手伝い、規格外で売り物にならなくなった農作物を分けてもらったり、地元の食材が並ぶ市場で仕入れたりして調達していった。

また、食堂は単に選手が食事をするという役割だけでなく、サポーターと選手が交流できる場にしたいという狙いもあったという。

「選手を通じて食堂に居合わせるサポーターに横のつながりができると、知り合いに会うために週末スタジアムに行く回数も増えるはずです。選手が食事ができて、サポーターがつながる場にもなる。チームの課題も解決できる素晴らしい企画だと思いました」。 食堂は無事開業。不幸にも、在籍していた2年間は新型コロナウイルスにより会食が難しくなっていた時期に当たってしまったが、契約が切れるまでの最後の1〜2か月はサポーターを交えて交流ができるようになり、連日予約満員の大盛況だったという。

熊本在籍時、更なる事業の拡大に備えて株式会社を設立。現役Jリーガー兼代表取締役という肩書が誕生することになった。

困窮世帯の子どもに夢を。目標の一つだったサポートを開始

「移動式こども食堂」で子どもに弁当を手渡す浅川選手 【写真提供:浅川隼人】

2021年、契約満了でロアッソ熊本を離れた浅川選手は、当時J3の下のカテゴリーにあたるJFLの「奈良クラブ」を新天地に選んだ。在籍した2年間でピッチでは得点王やMVPを受賞。奈良クラブのJFL優勝と昇格に貢献した。ピッチ外では「移動式こども食堂」という企画を始めた。

プロジェクトのきっかけは、お寺に集まったお供えものを経済的に困難な状況にある子どもや家庭におすそ分けする活動をしていた同県のNPO法人との出会いだった。 「豊かな先進国だと思っていた日本は7人に1人、奈良県では6人に1人の子どもが貧困に苦しんでいると知らされました」。無縁だと思っていた貧しさを身近に感じた。

「夢を追い続けられる環境を作り続けたい」。以前、Y.S.C.C.横浜在籍時代に訪れたフィリピンのセブ島で、ゴミ山やスラムに住む子どもたちの目の奥が輝いていることに感銘を受けた浅川選手。それ以降、お金や環境、周りの声に関係なく夢を追いかけられる支えになることを目標にしていた。

奈良で自分にできることはなにか。これまで培った経験をもとに考案したのが、県内どこにでも行ける移動式のこども食堂だった。再度クラウドファンディングを実施すると、目標金額を上回る170万円が集まり、キッチントレーラーが購入できた。

昨年8月、NPOの理事が住職を勤めるお寺に隣接する駐車場にトレーラーを停め、支援を受けている家庭の子ども達に弁当を手渡した。食材はできる限り奈良県産にこだわり調達。アスリートフードマイスターや管理栄養士の資格を持つスタッフがレシピを考案した。
食堂企画と同時に子どもたちと遊びながら交流するイベントも開催し、好評だったという。

2024年2月には、移動式こども食堂の取り組みが評価され、スポーツ庁と民間企業が共同して行うコンテストで「ソーシャル・インパクト賞」を受賞した 【写真提供:浅川隼人】

「子どもたちを肩車してあげたんですが、肩車ができなかったシングルマザーのご家庭から『子どもが見たことのない表情で喜んでいました』という感想をいただきました。また、経済的な困窮はなかなか口には出しづらいことだと思いますが、企画を通して同じ悩みを抱える家庭同士がつながれたことも意味があったと思います」と語る。

2024年に長野県松本市の松本山雅FCに移籍したが、奈良でのこども食堂の企画は今も続いている。

特別ではなく“再現性”のある選手を目指して

小児入院患者の保護者支援のプロジェクトに向け、入院経験のある親子から課題を聞き取る浅川選手(左前) 【写真提供:浅川隼人】

サッカー選手という能力を活かして様々な活動に取り組む浅川選手だが、そのように彼を突き動かしているものは一体何なのだろうか?

「ピッチ外で知り合った方々がピッチでの僕のパフォーマンスを支えてくれる側面もあると思います。Y.S.C.C.横浜時代、レンタルJリーガーの一環で毎週コーチングを行っていた中学校があったんですが、初めて彼らが試合を見に来てくれた日、キャリア初のハットトリックをしたんです。興奮で彼らの目の色が変わったのが分かって嬉しかったですね」。

また、浅川選手は松本市で大学病院の小児科に入院する未就学児に付き添う保護者向けに、栄養バランスの取れた弁当を届ける活動にも取り組んでいる。未就学児には常時保護者の付き添いが必要となり、保護者自身が自分の食事に十分な時間をかけられない問題があるためだという。
「このプロジェクトで出会った岐阜県の子も、退院後に再び松本市を訪れて観戦してくれました。その試合で、僕が決勝点を挙げたのですが試合後チームに喜びの電話をかけてきてくれました。こういった支えもモチベーションにつながっています」

ただ、ピッチ外の活動の恩恵は、サッカーのパフォーマンスへの影響だけではないという。

「僕は元々メンタルが強い方ではないので、一つに固執すると崩れてしまう可能性があります。なので、たとえサッカーがうまく行かなかった日があったとしても、ピッチ外の活動で誰かの笑顔を見られれば1日をポジティブな気持ちで終えられる。そうすることで、大きく崩れるリスクは少なくなると思っています」

右足がダメなら左足。左足がダメなら右足。プレースタイルと同様、サッカーと事業の「両利き」はそれぞれが相互に作用し、成果を上げてきた。このようにサッカーと実業家の独自の路線は着実に固まりつつあるが、浅川選手の目標は、“唯一無二”になることではない、という。

「僕のキャリアの一番の強みは“再現性”です。三浦知良選手や本田圭佑選手の様な特別な選手が行う何かは、『あの人たちだからできるよね』と感じてしまう人は多いのではないでしょうか。ただ、必ずしも華々しいキャリアを描いてきたわけではない僕がやることで、『自分もできるかも』と感じてもらえたら、と思うんです。Jリーグアワードを受賞したり、得点王になったりすることだけがすべてではなく、また違う新たな道を作っていきたい。これから同じ様な取り組みをしていく選手が現れた時に『そのスタイルは浅川隼人だね』と言われるためにも、この道を切り拓いていきたいですね」

Jリーグはほとんどの都道府県に1チーム以上があるほどの広がりを見せているが、カテゴリーが下がるごとに観客数は少なくなっているのが現状だ。J3の多くのチームが首都圏などの都市部にホームがなく、人口減少が進む中、地方クラブが観客数を増やし続けるのは容易ではないだろう。
一方、Jリーガーの様な肩書を持つアスリートが様々な社会課題に取り組むことで注目が集まり、解決に向かう可能性は高まる。また、浅川選手の様にピッチ外で出会ったサッカーと一見無縁な人たちが、選手を通じてチームやサッカーに興味を持つようになり、スタジアムに足を運ぶようになることは地域やチームの活性化にもつながるだろう。今後も、スポーツ界と社会にとって一石二鳥な取り組みに奔走するアスリートの姿に注目したい。

text by Taro Nashida(Parasapo Lab)
写真提供:浅川隼人

※本記事はパラサポWEBに2024年10月に掲載されたものです。
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