バスケ熱はまだまだ上昇中 #16 伊藤駿が歩んできたバスケ人生【秋田ノーザンハピネッツ】

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【秋田ノーザンハピネッツ】

秋田ノーザンハピネッツの公式ファンクラブ「クラブハピネッツ」で公開しているテキストコンテンツ「TURNING POINT」をスポーツナビでも一部公開。今回は「秋田の頭脳」伊藤駿(いとう たかし)選手が歩んできたバスケ人生を振り返ります。

波乱のバスケ人生は続く!?

「大学進学については周りの方から情報を頂きつつ、僕なりに志望校を絞っていました。が、そことはご縁がなく、お誘いを受けた青山学院大学に決めました」

大学バスケでの活躍をイメージしつつ、視線はその先(就職)も意識していた。当時は、「関実(関東実業団連盟)の企業でバスケができればいいなと。仕事もバスケも頑張る、『バスケが仕事』ではなく、『仕事とバスケも』と思っていました」

強豪・青学には全国から選りすぐりの選手たちが集まり、メンバー入りの競争は厳しかった。

「練習自体の運動量というか、それは明成での経験があったので、周りがいうほどキツイとは思わず、マジで余裕でした。ただ、選手一人ひとりのレベルが高い。バスケの質が違うんです。『試合に出るのは無理かな』って、一時は辞めることも考えました」

ここもターニングポイントのひとつ。その「無理かな」がまた、持ち前の反骨精神に火をつける。だったらどうすると考えながらプレーすることを意識した。

「バスケを始めてから、『自分に何が足りないのか』『どうすれば試合に出られるか』は常に考えずっと努力していました。例えばヘッドコーチの考え方を理解する。『このコーチはどういうプレーを好むのか』『どういうシチュエーションを用意しているのか』というのを研究し、その考え方にアプローチしようと努めます」

青学時代、特に意識したのがチームプレーに「プラスα」を加えること。

「決められたプレーはきちんとこなしながら、プラスαを加えられないかを考え、提案する。長谷川さんは柔軟に受け入れてくださる方で、『それ、いいね』って。自分から積極的にやるようになりました」

さらに持ち味の『キャプテンシー』が認められていく。そんな伊藤が考えるキャプテンの資質とは?

「『求心力が一番』だと思いますけど、僕なりには、人が嫌がることを積極的にやるタイプはすごくありがたい存在になる。泥臭いことやスタッツに残らないプレー、人が見ていない場面でも手を抜かない姿勢がある人間は(キャプテンとして)資質があるのかなと」──なるほど、説得力がある。

「仕事とバスケ」が「いつかはプロ」に

青学ではインカレ制覇をはじめ、数々の栄冠を手にした。先に記した通り、卒業後は関実でプレーを視野に入れていた。学生時代の実績を知ればトップリーグでの活躍も太鼓判──実際、複数のJBLチームから声が掛かり、最終的には日立サンロッカーズ(現・サンロッカーズ渋谷)入りが決まる。

「当時、関実で活躍する先輩と話をしていて、(就職するなら)早く答えを出したほうがいいんじゃないか、とアドバイスを頂きました。それで『関実で』という考えになりましたが、もう少し待ってみようと。その結果、日立から声を掛けていただき、本当にありがたいお話でした」

その頃は、JBL全体に『プロ』という意識が希薄で、社員選手が主体だった。

「基本的には社員として活動するつもりでしたし、プロになることまったく考えてなかったです。社員なら将来が保証されていますから」

トップリーグでバスケキャリアをスタートして数年が経ち、バスケを取り巻く環境が大きく変った。『B.LEAGUE』の開幕だ。

【秋田ノーザンハピネッツ】

<続きは「クラブハピネッツ」で>

文・羽上田昌彦

ポジション ポイントガード(PG)
身長/体重 174cm/73kg
生年月日 1990年2月14日
出身地 宮城県
経歴
明成高等学校 → 青山学院大学※
→ 日立サンロッカーズ[JBL](2012-13)→ 日立サンロッカーズ東京[NBL](2013-16) → サンロッカーズ渋谷(2016-19) → 秋田ノーザンハピネッツ(2019-)
※第15回日本男子学生選抜バスケットボール大会 最優秀選手賞(2011)
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著者プロフィール

私たちが目指すのは、クラブに関わるすべての人々と幸せを共有できるような存在になること。この想いを込めて、秋田から全国の皆さまにたくさんの「ハッピーとワクワク」を感じていただけるようなコンテンツをお届けします。

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