パンデミックとオリンピック。1920年アントワープ大会の光と影。

笹川スポーツ財団
チーム・協会

【写真提供:フォート・キシモト】

令和2年の年明け、だれが7月24日に開催を待つ「東京2020オリンピック・パラリンピック」の延期を予測しえただろう。

前年の暮、中国・武漢市が原因不明のウイルス性肺炎の多発症を公表。1月には「新型コロナウイルス」として全世界に感染が拡大していく。人の動きが止まり、イベントの中止が相次ぐ。世界が閉塞状況に陥るなか、遅まきながら世界保健機関(WHO)が「パンデミック(世界的流行)」を宣言したのが3月12日。それを潮目に「開催」から「延期」へと、流れは変わっていった。

当時の安倍晋三首相が国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長と電話会談し、1年延期で合意したのは3月24日。1週間後、「TOKYO2020」の名称は残したまま、オリンピックは2021年7月23日、パラリンピックは同年8月24日開会式と決まる。124年に及ぶオリンピックの歴史のなかで初の開催延期である。

今日と似た状況であった、1920年アントワープ大会

ちょうど100年前、1920年に開催された第7回アントワープ大会は、今日と同じような状況にあった。「人類最悪のパンデミック」と称される「スペイン風邪」の世界的な蔓延である。

スペイン風邪は第一次世界大戦下の1918年3月、米国カンザス州の陸軍基地で発症したとされる。米軍の欧州戦線投入によりヨーロッパ全土に拡大。南北アメリカは当然、北アフリカから中東、革命進行中のロシアや中国、インド、そして日本に広がり、オーストラリアに至る。第1波は比較的穏やかであったが、夏から秋にかけた第2波で死者が急増。1919年上半期まで続いた。

歴史人口学者の速水融著『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ ‐人類とウイルスの第一次世界戦争‐』(藤原書店)によれば、当時の世界の人口の約3割にあたる5億人が感染し、実に4500万人もの死者が出たとされる。ほぼ半年遅れで波を迎えた日本では1921年まで感染が続き、人口の約半分にあたる2400万人が感染し、39万人が亡くなったと推計されている。

なぜ、アントワープ大会は開催されたのか?

新型コロナウイルスの世界的な感染者数については、米国ジョンズホプキンス大学の集計が連日、公表されている。10月19日に4000万人を突破、死者も111万人を超えた。当時との社会環境の違い、新型コロナウイルスの感染拡大が終息していない状況では単純に比較できないが、改めてスペイン風邪がいかに猛威をふるったか、想像に難くない。のちに、スペイン風邪は「H1N1亜型インフルエンザウイルス」によるものと判明した。

余談ながら、米国発症にも関わらず「スペイン風邪」と呼ばれるのは、第1次大戦下で参戦国が一斉に情報を機密扱いとしたことに対し、中立国スペインの状況ばかりが大きく報じられたことによる。今日、中国がことさら「武漢発症」に敏感な態度を取り続ける理由でもある。また、当時の新聞をくると、対策として講じられているのは「患者の隔離」「密集地の回避」「マスクの着用」さらには「休校」や「イベントの中止」など、現在と何ら変わるところはない。

それにしても、スペイン風邪がヨーロッパで猛威をふるうなか、なぜ、ベルギーのアントワープで第7回オリンピック競技大会が開催できたのだろう。素朴な疑問をもつ。

ひとつは1920年までにヨーロッパでの感染が収束していたことがあげられよう。全世界での収束はみられなくとも、欧米で収まっていれば、それでよかった。今日と異なり、オリンピックは「欧米のもの」といわれた時代である。

 また、ベルギーは奇跡的に感染拡大を免れた国だったとされている。確たる傍証は持たない。ただ、東洋文庫所蔵の内務省衛生局編『流行性感冒「スペイン風邪」大流行の記録』を紐解くと、「白耳義(ベルギー)」の独立した記述はなく、わずかに「独逸(ドイツ)」の記載の中に「白」として書かれているにとどまる。フランス、スペイン、イタリア、オランダ、ポルトガル、そして英国、米国など世界の国々を挙げて言及されているなかで、その名がみられないのは大きな影響のなかった証明ではなかろうか…。

第一次世界大戦の影とクーベルタンの闇

1917年、第一次世界大戦で重機関銃を構えるイギリス軍 【写真提供:フォート・キシモト】

むしろ、この国には第一次世界大戦の影が色濃く落ちていた。

第一次大戦は1914年7月28日、当時のオーストリア領サラエボ(現・ボスニア・ヘルツェゴビナの首都)でオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子がセルビア人の民族主義者に暗殺されたことが発端である。オーストリアがセルビアに宣戦布告すると、セルビアの後ろ盾であるロシアが総動員令を出して対峙。オーストリア側に同盟を結ぶドイツがつき、一方ロシアにはフランス、英国が加勢し戦火が広がった。25カ国が参戦するなかで、ベルギーは永世中立国としての立場を貫いていた。しかし、それを無視したドイツの侵攻によって占領下におかれ、国土を蹂躙されるなど大きな損害を被ったのだった。

1918年11月11日、長きに及んだ戦が止んだ。その間、1916年にドイツのベルリンで開催が予定されていた第6回オリンピックが中止された。1912年第5回ストックホルム大会に日本人初のオリンピック出場を果たしたものの途中でリタイア、生活のすべてをかけて雪辱を期していたマラソンの金栗四三が悲嘆の涙にくれたことはよく知られる。

そんなアントワープにオリンピック開催の道を開いたのはIOC、いやIOC会長に復帰したピエール・ド・クーベルタンの強い意向にほかならない。

平和を希求する「オリンピック・ムーブメント」を提唱してきたクーベルタンには、ぽっかりあいたIOCとの空白がある。それは見事に第1次大戦と重なる。

1915年4月、クーベルタンはパリの自宅に置いていたIOC本部をスイスのローザンヌに移す。戦火を避けるための移動であった。その翌1916年、彼は突如として信頼するIOC委員、ゴドフロワ・ド・ブロネを会長代理に指名し、オリンピックに関わる活動を休止してしまう。そして自ら志願しフランス軍に従軍、ドイツとの戦いに身を投ずる。1863年1月1日生まれ、50歳を超えた彼が前線に送られることはもちろんありえず、戦闘意欲高揚のために学校などを巡り、いわゆる銃後教育をになった。

「IOCは、軍人に率いられるべきではない」とブロネに会長代理を託した思いは理解できるが、なぜ“50歳を過ぎた反乱”を起こしたのか。その意図がわからない。祖国の危機に立ちあがる貴族としての矜持なのか、反戦思想と指弾されて著書が発禁処分になったことへの抵抗か。それとも、ベルリン大会開催によりドイツの好戦的傾向を抑制するねらい、つまり「オリンピックによる平和」が断たれた絶望だったのだろうか。

1919年3月、クーベルタンは何事もなかったかのように会長職に戻る。すでに終戦と同時に活動を再開、ベルギー出身のIOC委員で後の会長、アンリ・ド・バイエ=ラツールを訪れ、ベルギー政府に第7回大会の開催を持ち掛けている。そして1919年4月、ローザンヌで開いたIOC総会でアントワープを1920年大会開催都市に選出するのだった。

成功した大会か、不備が目立った大会か

第一次大戦とスペイン風邪。死臭のするヨーロッパにあって、ドイツに占領されて甚大な被害を出したアントワープで開催することこそ、オリンピックを復興の象徴、光明にできる。IOCやクーベルタンにはそうした意図がなかったとは断じきれない。ベルギーもまたそうした政治的配慮を感じていたのだろう。ドイツとオーストリアなどの排除を条件に開催要請を受け入れた。

1920年8月14日、完成間もないオリンピック・スタジアムに史上最多の29カ国(当時)が集い、国王アルベール一世が高らかに開会を宣言した。クーベルタンは「信じがたいほどの暴力の嵐が去り、オリンピックは再び始まった」と喜びを表現。自らデザインし、1914年にパリの百貨店ボンマルシェで製作された「白地に青、黄、黒、緑、赤の5色のつながる輪」が描かれたオリンピック旗が初めて観衆に披露された。そして史上初めて、ベルギーのフェンシング選手、ビクトル・ボワンがユニホーム姿で選手宣誓した。華麗な演出は、「平和と復興を讃える祝祭」として世界に発信されていった。

アントワープは「平和の祭典」「成功したオリンピック」と今も称される。ただ、それはIOC側の視点。前回、1916年の第6回ベルリン大会が第1次大戦によって中止され、この大会も開催できなければオリンピック活動は足場を失い、霧散しかねない。是が非でも開催するとの強い意思はクーベルタンにあった。しかし、ベルギーは再建途上。財政に事欠き、人々の暮らしもままならない。1年あまりの期間では準備もままならなかった。未完成の競技会場が多く、スペイン風邪流行直後にも関わらず衛生面の配慮も足りず、選手たちの不評をかった。何より、資金難による宣伝不足は市民、国民の関心を呼ばず、空席ばかりが目立つ大会ではあった。

日本は陸上、水泳、テニスの3競技に16選手を送りこんだ。1918年に米騒動が起きるなど財政難で三井、三菱両財閥から協賛金の前払いをうけての参加である。テニスの熊谷一弥がシングルス、柏尾誠一郎と組んだダブルスで2位に入り、日本のオリンピック史上初のメダルを獲得している。

1920年アントワープ大会のテニス男子シングルで日本初のオリンピック・メダル(銀)を獲得した熊谷一弥 【写真提供:フォート・キシモト】

その熊谷は、自伝『テニスを生涯の友として』(講談社)でこう書いている。「設備も不完全、秩序不整頓」「これがオリンピック大会の晴れ舞台とはお世辞にも申しがたい」―決勝で敗れた腹いせではない。左利き、軟式出身の熊谷はスピンをかけたショットを得意としていた。表面が整えられていないコートでは思うように技術を発揮できず、決勝ではこれまで負けたことのない相手に敗れたのである。

ちなみに、この熊谷は三菱合資、柏尾は三井物産のそれぞれニューヨーク支店勤務。海外勤務で技を磨いてきたふたりはともかく、日本選手と外国人選手との実力に大きな隔たりがあった時代の話である。

ともあれ、このアントワープ大会によってオリンピックは隆盛に向かう足元を固め、日本はオリンピック初メダルによって国際舞台での飛躍につなげていく。やはり継続することの重要さを確認する大会であったことは疑うべくもない。

いまだ新型コロナウイルスの脅威から解放されたわけではない。まだまだ開催に光の見えない状況が続く。それでも「スポーツが国際舞台に返り咲く素晴らしい祝祭」(バッハ会長)とするための準備は続いている。

文:佐野 慎輔(尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員/笹川スポーツ財団 理事)

※本記事は、2020年10月に笹川スポーツ財団「スポーツ 歴史の検証」に掲載されたものです。
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著者プロフィール

笹川スポーツ財団は、「スポーツ・フォー・エブリワン」を推進するスポーツ専門のシンクタンクです。スポーツに関する研究調査、データの収集・分析・発信や、国・自治体のスポーツ政策に対する提言策定を行い、「誰でも・どこでも・いつまでも」スポーツに親しむことができる社会づくりを目指しています。

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