【日本野球連盟公式サポ通信】黒獅子旗のゆくえ(ヤマハ編)
【【提供:ヤマハ硬式野球部】】
社会人野球のちょっと裏側をお伝えする「日本野球連盟公式サポーター通信」第14回目です。
今回は、優勝チームの証である黒獅子旗のその後を、当時のエピソード共に振り返る人気企画「黒獅子旗のゆくえ」です。
“オール浜松”の底力
【ヤマハ硬式野球部の合宿所に保管されている黒獅子旗【提供:ヤマハ硬式野球部】】
そう当時を振り返るのは、1990年に優勝したヤマハ硬式野球部で外野手として活躍をした野沢洋久さんです。
野沢さんは中央大学卒業後、1988年にヤマハに入社し8年間プレーをした後、社業に専念。現在は野球部の副部長を務めています。
副部長として、練習などでの直接指導はできないものの、大会時には選手にアドバイスを送るなどチームを支える人物の1人です。
「当時のヤマハは、若手、中堅、ベテランの選手がバランスよく揃っていました。1987年に優勝していたこともあり、トップレベルの強さだったと思います。1987年の優勝の余韻がまだ部内にも社内にも残っていて、“絶対にまた優勝して、パレードをするぞ!”と気合が入っていましたね。会社に明るいニュースを届けたい一心でプレーしていました」
良きライバルとともに戦い手にした黒獅子旗
「当時、予選でウチのチームと河合楽器が接戦になるのはお決まりでした。今の社会人野球では考えられないかもしれませんが、普段仲のいい選手たちが、予選になるとしゃべりもしなくなるほど敵対心を持ってやっていました。同業他社ということもあり、会社同士も良きライバルとして意識していました。」
その河合楽器から補強選手で入っていた盛隆章選手が、先制本塁打を放ち「オール浜松」で初戦突破すると、チームの勢いが増し、優勝へ突き進んでいったようです。
「あの年は、オール浜松で手にした優勝だったので、2002年に河合楽器が活動休止になったのは寂しかったです。ヤマハとしては、のちに千葉ロッテマリーンズに入団する吉田篤史(投手)が、本戦に来てから開花し、試合毎に成長していく姿が見ていて面白かったです。試合の後押しをしてくれた応援団のパフォーマンスにも感謝しています。ヤマハの吹奏楽団の演奏が聴こえると、ゾクゾクとしたことを今でも覚えています」
今年の都市対抗に向けてチームも始動!
「去年二大大会に出場できたことは、チームにとっても大きな自信に変わったと思います。いい選手がそろったチームなので、今年も楽しみですね」
と野沢さんは話し、ヤマハ硬式野球部の今後に期待を寄せていました。
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