石原 慎太郎元東京都知事が語る、オリンピック招致活動に込められた1964年の思い
【石原 慎太郎氏。IOC評価委員会来日記者会見より。(写真提供:フォート・キシモト)】
また、ヨットレースでは日本人初の国際大会に出場するなどパイオニアとして牽引してきました。今回は、1964年東京オリンピックの思い出やオリンピック招致にいたった背景などを石原氏にうかがいました。
聞き手/佐野 慎輔 文/斉藤 寿子 写真/フォート・キシモト
大学時代に残したロングキックの武勇伝
高校時代はサッカーに熱中。写真は一橋大学在学中のもの(1956年) 【写真提供:フォート・キシモト】
石原:『青春とはなんだ』を読んでいただきましたか。それは、どうもありがとう。
ラグビーを題材にしたというのは、たまたまなんですよ(笑)。私自身は、高校、大学とずっとサッカーの選手でしたからね。とはいっても、私自身は一流とは言えず、二流の選手でしたけどね。
ただロングキックには自信がありました。私は湘南高校卒業後、一橋大学に進学しまして、大学のサッカー部に所属していたのですが、当時は東京大学との定期戦を東京大学医学部附属病院の前にある御殿下グラウンドでよくやったんです。石ころがたくさん転がっているようなグラウンドで、転倒するとケガをしやすかった。だから私はあまり好きではなかったんだけれども、よく得意のロングキックでわざとボールを病院の方に大きく蹴り出して、ボールを取りに行くついでに、病院の木陰で休んだりしてね(笑)。ある日の定期戦で、ハーフラインの手前のところでフリーキックのチャンスになりまして、私がそこから蹴ってゴールを決めたことがあるんです。
―:え!?ハーフラインの手前からですか?相当な距離ですよね。それは、一橋大サッカー部の武勇伝になっていてもおかしくありません。
石原:実際、その試合の後からは「一橋大サッカー部には、ものすごいロングキッカーがいるぞ」と有名になりました。まぁ、取り柄はそのロングキック一つだけで、あとは大したことありませんでしたけどね(笑)。
兄弟でヨットを。裕次郎さんも名ヨットマンであった(1968年) 【写真提供:フォート・キシモト】
石原:いやいや、それこそ柔道なんて本当に大した選手ではありませんでしたよ。ただ、ヨットレースにおいては、私がパイオニア的存在であることは間違いありません。
1962年には、「コンテッサII」というヨットで「チャイナシーレース」(香港のヴィクトリア湾からフィリピン・マニラのスービック湾を走る国際レース)に出場しましたが、これが日本人として初めての国際レースだったんです。また、1972年には「沖縄・東京レース」、1979年には「小笠原レース」を創設しました。
―:日本ヨット界に今も受け継がれている功績の多くに、石原さんが関わられていると言っても過言ではないと思います。レースを創設された時のご苦労やエピソードがあればお聞かせ下さい。
石原:日本のヨットの歴史を簡単に振り返ると、1932年に日本ヨット協会が設立され、1936年のベルリンオリンピックのヨット競技に参加しています。
石原慎太郎氏(当日のインタビュー風景) 【写真提供:フォート・キシモト】
「外洋レースを主催するのはレースの参加者自身である」との原則に基づいて、私は日本における初の本格的な外洋レースである「沖縄・東京レース」を創設し、沖縄の本土復帰を祝って1972年に第一回大会を開催しました。参加は12艇でもちろん私も「コンテッII」を操って参加しました。このレースは海外からも注目を浴びました。
その後、私は1977年に環境庁長官時代に視察で訪れた小笠原諸島の自然の比類ない美しさに魅了され、当時の多くのヨットマンの処女地であった八丈島以南のこの地域でのヨットレースを思いついて、1979年に第一回小笠原レースの開催に漕ぎ付けたのです。1980年から1993年の間には社団法人日本外洋帆走協会の会長も務めました。
―:私はニュージーランドで行われた2000年のアメリカズカップの折、元NHK報道記者で、現在はフリージャーナリストとして幅広くご活躍されている木村太郎さんから、石原さんがどれだけ優秀なクルーであるかをうかがいました。木村さんは石原さんのヨット仲間だそうですね。
石原:太郎さんのご夫人がスキッパーでヨットレースをやっているんですよ。それで親しいんですけれども、実は太郎さん自身の腕はたいしたことないんです(笑)。私はレースでは結構勝ちましたからね。ですから、私が死んだ時には、葬儀の祭壇に必ずヨットレースで勝ち取ったトロフィーやカップなどの勲章を並べるように言ってあるんです(笑)。
東京マラソンでの光景に映されたスポーツの神髄
シドニーオリンピック女子マラソンで金メダルを獲得した高橋尚子選手(左)と小出義雄監督(2000年) 【写真提供:フォート・キシモト】
石原:東京マラソンは、我ながら良いスポーツイベントを作ったなと自負していることの一つですね。
そもそものきっかけは、シドニーオリンピック女子マラソン金メダリストの高橋尚子さんに「東京でマラソン大会を開催したい」と言われたことからだったんです。最初、私はそれを聞いて、「42.195kmも走る過酷なスポーツであるマラソンというのは、やっぱり空気のきれいなところでやるべきですよ。空気が汚れた東京では、ちょっと無理じゃないの?やめておいたほうがいいですよ」と言ったんです。そしたら、高橋さんの恩師である小出義雄監督(高橋さんや、1992年バルセロナオリンピック銀メダル、1996年アトランタオリンピック銅メダルの有森裕子さんなどを育てた、日本の女子マラソン界きっての名伯楽)がこう言うんです。「石原さん、私もQちゃん(高橋さんの愛称)が言うとおり、東京マラソンには大賛成ですよ。
なぜなら、マラソン選手というのは、意外かもしれませんが見栄っ張りが多く、大勢の人に自分が走っている姿を見てもらいたいと思っているんです。42.195kmも走るわけですから、やっぱり大勢の観客が見ている前の方が嬉しいんですよ」と。それで私も「なるほど」と思いまして、「それなら、ぜひ東京マラソンをつくりましょう」ということになったわけです。
第1回東京マラソン。スタート台で手を振り観客に応える。左は河野洋平日本陸連会長(当時)(2007年) 【写真提供:フォート・キシモト】
石原:確かに、東京マラソンが「世界6大マラソン」の一つとなったことは名誉なことだけれど、私自身はそういうエリートの部よりも、一般の部の方が感動を覚えましたね。
東京マラソンでは制限時間が設けられていて、さらに交通・整備や競技運営上、コースにはいくつかの関門があって、それぞれ閉鎖時間が設けられています。その時間に間に合わなかった場合は、タイムオーバーとなって、そこから先を走ることができず、迎えに来た収容バスに乗らなければいけません。だからみんな収容バスに拾われないようにと、必死で関門を通り、なんとか完走を目指すわけです。そうして、無事に完走したランナーたちはみんなゴールで泣いているんです。
第1回東京マラソン。都庁前をスタートするランナー(2007年) 【写真提供:フォート・キシモト】
あれは、本当に美しい光景でした。エリートの部の優勝者に月桂冠を渡すよりも、ずっと嬉しいものがありましたね。
―:石原さんは都知事時代には、スタートの号砲を撃って、そのまま最後の一人がスタートを切るまで全員を見送られていました。相当な長い時間を要しますよね。
石原:それでも、あの少し高いところからみんなが意気揚々とスタートしていくのを見られるのは、いい眺めでしたよ。私に向かって「石原さん!ありがとう!」と言いながら走っていく人たちも大勢いて、嬉しかったですね。「あぁ、苦労してでも東京マラソンを作って本当に良かったなぁ」と思いましたよ。
東京マラソン。大会を支えるボランティア(2014年) 【写真提供:フォート・キシモト】
石原:東京マラソンをやろうと構想を始めた時から ボランティア のことが頭にありました。当時はまだ日本では、なかなかボランティア活動に対する理解が進んでいませんでしたが、大勢のランナーが長時間にわたって走る市民マラソンでは、大会運営上、ボランティアの存在が不可欠と考えたのです。
2007年の第一回大会では約3万人の市民ランナーに対し、約1万人の無償ボランティアが参加してくれました。給水・給食など市民ランナーへのサポート業務、沿道の観客に案内・誘導、完走メダル配布など多岐にわたり献身的な活動を展開し、マスコミにも大きく取り上げられ、大会の成功に寄与しましたよ。私はレース後に次のような言葉でボランティアを労いました。
「日本には昔から、籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人、ということが言われてきた。今の日本ではこのような考え方が薄れてきている。あなたたちの活動はこの言葉を体現している。本当にありがとう。ランナー、都民、国民に代わって、心から御礼を申し上げる」と。
スポーツボランティアはその後の様々なスポーツ大会、2019年ラグビーワールドカップなどで活躍しました。東京マラソンで結実し、大きな花を咲かせたのです。2020年東京オリンピック・パラリンピックや2021年のワールドマスターズゲームズ関西ではさらに充実したボランティア活動を期待したいですね。
オリンピック招致レースで見えたIOCの真実の姿
東京オリンピック女子バレーボールで宿敵ソ連(当時)を破り金メダルを獲得した“東洋の魔女”(1964年) 【写真提供:フォート・キシモト】
また、1964年東京オリンピックの時は、開会式と閉会式をはじめ、いくつかの競技をスタンドで観戦されたそうですが、一番の思い出は何でしょうか。
石原:最も感動的だった試合は、ソ連(現ロシア)を破って金メダルに輝いた女子バレーボールの決勝でした。優勝が決まった瞬間、ふと全日本のベンチを見ると、コート上で喜びにわく選手たちをよそに、一人静かに座って感慨にふけっている大松博文監督(回転レシーブの生みの親。日本バレーボール界きっての名将)の姿がありました。その姿を見て「男の美しさ」を感じましたね。その後、大松監督は選手に促されてようやく胴上げの輪に加わったんです。
ただ、そうした試合の名シーン以上に強く記憶に残っているのは、メインスタジアムである国立競技場で行われた陸上競技で、トラック種目でもフィールド種目でも、日本の国旗である日の丸がまったくと言っていいほど揚がらなくて、悔しい思いをしたことです。
ほとんどの種目での金メダルをアメリカが取りまして、センターポールに星条旗が揚がり、アメリカ国歌が流れるわけです。当時は時間短縮のために国歌を最後まで流さずに途中で終わるのですが、その続きをバックスタンドで朗々とトランペットで吹く人たちがいたんです。「彼らは誰なんだ?」と思って調べさせたら、アメリカ人の肉屋と八百屋の二人のオヤジでした。悔しかったけれど、普通のオヤジがトランペットで国歌の続きを吹くなんて、粋だなと思いましたよ。
東京オリンピックマラソンで銅メダルを獲得した 円谷幸吉(後ろ)(1964年) 【写真提供:フォート・キシモト】
それともう一つ、オリンピックを招致しようと思った理由がありました。
私が1999年に東京都知事に就任した当時、東京都の貯金は約40億円しかなく、財政再建団体に転落する寸前というところまで悪化していました。そこで公認会計士の中地宏さん(1972年、日本人初のアメリカ公認会計士となり、日本公認会計士協会会長などを歴任。現在は経営管理ナカチ相談役)を筆頭とする検討チームに、東京都の責任会計を具現化するための「機能するバランスシート」(管理会計のツールとして財政状況を数値で明確にした部門や業績評価のための財務情報)を作成してもらいました。
また、当時東京都労働組合連合会(都労連)委員長を務めていた矢澤賢さんが、偶然、私の親友だった当時日本テレビ会長を務めていた氏家齊一郎さんの縁戚だったこともあって、いろいろと協力してくれたことも大きかった。
氏家さんのおかげで都労連にも承諾を得られたので、3年間は歳費をカットして貯金しようということになったんです。実際は4年間だったんですけれども、そうしたところ、就任5年目には4000億円の貯金ができました。それで何かやろうと思って、オリンピックの招致を考えたんです。
コペンハーゲンで開催されたIOC総会での石原慎太郎都知事(当時)の2016年東京大会招致プレゼンテーション(2009年) 【写真提供:フォート・キシモト】
石原:結局、招致レースには負けてしまったわけですけれども、国際オリンピック委員会(IOC)というのは、予想以上に閉鎖的で利権が絡んだ組織だなと思いましたね。ある理事は、「東京の招致に協力するから、自分に最高の勲章を与えてくれ」と言ってきたんです。仕方ないから彼の言う通りに勲章を与えて、迎賓館でその授与式を華々しくやったわけです。ところが、結局は何も協力してくれませんでした。
―:IOCは以前よりはだいぶ透明化されてきたとはいえ、まだまだタブーの多い閉鎖的な組織であることに変わりはないように思います。
石原:2009年、デンマーク・コペンハーゲンで行われたIOC総会での最終投票で落選した時は、本当にがっかりしましたね。
ただ、2012年ロンドンオリンピックの招致活動で責任者を務めたセバスチャン・コー(元陸上競技の中距離選手で1980年モスクワオリンピック、1984年ロサンゼルスオリンピックではいずれも1500mで金メダルを獲得。2012年ロンドンオリンピック組織委員会会長。2015年より現国際陸上競技連盟会長を務めている)だけは、嬉しいことを言ってくれましたよ。彼は気難しい性格で周りの評判はあまり良くなかったんだけれども、実際に会って話をしたら意気投合しまして親しい間柄になっていました。
彼は最終投票後、日本のブースまで来てくれまして、こう言ってくれたんです。「私が見る限り、日本のプレゼンテーションが最高だったよ。オリンピックを招致するうえでの財政状況も素晴らしいしね」と。
でも、彼はこう続けて言ったんです。「でも、オリンピックの招致レースなんて、こんなものだよ」。そう私に告げて、肩をすくめて帰っていきました。
2016年東京オリンピック・パラリンピック招致で応援団長を務めた森末慎二氏(左)と松木安太郎氏(右)(2009年) 【写真提供:フォート・キシモト】
石原:同じ飛行機にサッカーの松木安太郎さん(現役時代は日本代表として1986年サッカーワールドカップメキシコ大会予選や1988年ソウルオリンピック予選などに出場。引退後はヴェルディ川崎、セレッソ大阪などの監督を歴任し、現在は解説者として活動)、体操の森末慎二さん(1984年ロサンゼルスオリンピックで個人では鉄棒で金、跳馬で銀メダルを獲得。団体の銅メダルにも貢献。鉄棒では後方棒上抱え込み2回宙返り腕支持『モリスエ』を生み出した)を団長とする応援団約250名が乗っていた。
10月1日に羽田を出発し、翌朝コペンハーゲンに着いて、朝から応援活動を行い、オリンピック開催都市が決定するIOC総会を会場外で見て、その日の内に帰国の途に就くというまさに弾丸ツアー。
その中には都庁の職員や競技団体関係者も含まれていましたが、私は各座席を回ってみんなに感謝の気持ちを伝えると同時に謝罪しました。そしたら、逆にみんなが 次もがんばってくださいと言って励ましてくれました。それで思わず涙がこぼれてしまったんです。
2020年東京大会開催決定を受けて喜ぶ招致関係者。左から2番目が森喜朗氏、中央左が猪瀬直樹都知事(当時)(2013年) 【写真提供:フォート・キシモト】
石原:まぁ、そうでしょうね。2016年大会の招致の時に、東京都の職員が本当に頑張ってくれたおかげですよ。今のIOCのオリンピック開催都市決定のプロセスから考えると、1回目の立候補で開催を勝ち取れるというケースは先ずない。招致活動に関する費用の問題もあるが、自治体のトップが招致に対するモチベーションを維持し続けることが良い結果につながる。
その意味からも、副知事時代から私の良き理解者であり、私の都政を引き継いだ猪瀬君にオリンピック招致も上手くバトンタッチできたことが勝利につながったと思いますよ。
―:2020年東京オリンピック・パラリンピックが、いよいよ今年開催されるわけですが、準備状況など、石原さんはどのように見られていますか?
石原:正直、私にはよくわからないけれども、ただ一つ言えるのは、ここまでくるのに森喜朗くん(2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長)は大変な苦労をしたなと思いますよ。組織委員会が発足してから、新国立競技場問題、エンブレム問題などが次々と起こり、最近ではマラソン、競歩競技会場の札幌への変更などもあった。
森くんは総理大臣経験者だし、スポーツ政策にも通じており、調整能力を発揮してここまでこれたんでしょう。今後もまだまだ問題は出てくると思いますが、開催まであとわずかなのだから、組織委員会を中心に政府、JOC、東京都、各競技団体など関係各機関が一枚岩となって大会成功に向けて取り組んで欲しいですね。
新装なった新国立競技場での初のスポーイベントとなったサッカー天皇杯決勝(2020年) 【写真提供:フォート・キシモト】
石原:招待されたら行きたいと思いますけどね。1964年の時とは、また違う気持ちになるでしょうなぁ。私は1964年東京大会開会式を見て、新聞のコラムに「人間自身の祝典」と題し<オリンピックは我々にとって最後に残された祝典に違いない。そしてこの祭りの祭主は我々一人一人であり、そこで祭られるものも人間である。>と書いた。その考えは今でも変わっていない。
また閉会式では、開会式と違って各国選手団が互いに入り交り、肩を組みながら行進している姿を見て、<これほど楽しい別れがあったろうか。この別離は、そのまま再会につながるのだ。聖火は消えず、ただ移り行くのみである。>と締めくくった。
あれから56年後に再び東京でオリンピックが行われますが、この間、オリンピックは常に政治や民族問題などに翻弄され続けてきました。近年ではドーピングなどという人間の尊厳に関わる大きな課題にも直面しています。新国立競技場で行われる開会式に足を運ぶことになれば、さて、何を思うのかなぁ……。
問題視すべき過度な酷使を良しとする日本の風潮
激しいぶつかり合いが魅力の大相撲 【写真提供:フォート・キシモト】
石原:私が一番気になっているのは大相撲です。あれだけ激しくぶつかり合いながら、年に6場所もやるというのは、力士には過酷すぎやしないかなと思いますね。ケガをしても、十分に休養する時間もない。もちろん、競技スポーツの世界において、体を酷使するというのは当然です。しかし、度が過ぎるのは良くないと思いますね。
―:日本スポーツ界全体が、まだ選手を酷使することを当然のように見ているところがありますし、それを美談のように取り上げるメディアにも問題があるような気がします。
石原:昨年、高校野球の岩手県大会決勝で大船渡高校の国保陽平監督が、エースの佐々木朗希くん(2019年ドラフトで千葉ロッテに1位指名)を登板回避させたことが話題となっていたけれど、私からすれば、国保監督は正しい判断をしたなと思いましたね。佐々木くんはプロ野球選手になることを望んでいたわけだから、彼の将来を考えて「ここでケガをさせるわけにはいかない」と登板回避したのは、監督としての思いやりですよ。それで負けたって、仕方ないのでは、と思いましたけどね。
日本代表のキャプテンとしてラグビーワールドカップで日本を史上初のベストエイトに導いたリーチ・マイケル(2019年) 【写真提供:フォート・キシモト】
石原:やはり肉体を使っての達成感ですね。だからこそ、東京マラソンで無事に完走をして涙を流している人たちの姿というのは美しいなと。あれこそがスポーツの神髄だと思いますね。
それと、私は画一的なことが好きではないんです。一番つまらないし、人間をダメにしてしまう。だから子どもたちを指導する際に、同じパターンを子どもたちに押し付けるのは良くない。子どもたち一人一人に、いろんな才能があるわけですからね。その芽をつぶしてほしくない。
そういう点で、ラグビー日本代表のキャプテンを務めているリーチ・マイケルはなかなかいい人物だなと思いますね。先日、彼が高校生を指導するところを見ましたけれども、きちんと相手の心理をつかんで納得させながら技術を教えていて、彼のような指導者は素晴らしいなと思いました。
―:リーチ・マイケルのキャプテンシーは高く評価されていますね。石原さんご自身も様々な分野で先頭にたって道を切り開いてこられましたが、石原さんにとっての リーダー像 とはどのようなものでしょうか。
石原:政治家、企業の経営者、教育者、スポーツの指導者などに共通するリーダーとしての資質は、何と言っても自ら強い信念を持ち、それを言葉で正確に伝えられることだと思います。
石原慎太郎氏(当日のインタビュー風景) 【写真提供:フォート・キシモト】
ベストセラーとなりましたが、多くのみなさんが「そうだ」「その通りだ」と共感されたからだと思います。リーダーには、着眼大局・着手小局、プロセスを無視したスピード感、マスコミを上手く使う、常識では考えられないアイデアを出す、といったことなども求められます。もちろん人を思いやる気持ちなど人間的な魅力も兼ね備えていることは言うまでもありませんがね。
―:最後に、後世に伝えたいことを教えてください。
石原:私は今の若い世代の人はこの国についてほとんど何も知らない、ということに危惧の念を抱いています。したがって、これからの日本を担う子どもたちに対し我々がなすべきことは、この国に対する愛着をいかに育てるかということにつきます。
我々は、家族や自分の住んでいる家、使っている物、あるいは自分の属する町、社会に対する「愛着」をそれぞれ抱きながら生きています。そして当然自らの属する国家社会そのものが「愛着」の対象となるべきです。
※本記事は2020年2月に「笹川スポーツ財団 スポーツ歴史の検証 」に掲載されたものです。
■笹川スポーツ財団 スポーツ 歴史の検証
「スポーツ 歴史の検証」は、スポーツの歴史、スポーツの定義、オリンピックの歴史、パラリンピックの歴史の解説、歴代オリンピアン、パラリンピアンをはじめ、日本を代表するアスリート、それを支える人のインタビュー集です。
本インタビューは、「スポーツの変革に挑戦してきた人びと」がテーマで、第88回のインタビューとなります。
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