PARTNER of SUNGOLIATH #1 IMON (井門グループ) 井門義博 代表取締役社長 <前編> 『夢のよう』

チーム・協会
【ラグビー×企業人】意外なつながりを深掘りする特集企画
ラグビーのパートナー企業には、一見するとラグビーとは縁がなさそうな企業も数多く存在します。しかし、話を聞いてみると「実はラグビーが好きでした」「昔から応援していました」など、意外なつながりが見えてくることも。

この企画では、そんな企業の人とラグビーの関係を深掘りし、なぜ彼らがラグビーを支援するのか、その背景にある想いを探っていきます。

東京サントリーサンゴリアスの応援者であるパートナーたちへのインタビュー企画。
その第一弾に登場するのは、井門グループ(IMON)の井門義博 代表取締役社長。

新シーズンからユニフォームの背中にIMONのロゴが入ることとなった同社は、鉄道模型や宝飾事業を展開する企業。一見、ラグビーとは縁遠いように思えますが、その背景にはどのような想いがあるのでしょうか。
井門社長が語る、ラグビーへの熱い想いとIMONの取り組みに迫ります。
(取材日:2025年2月上旬)

選手たちとともに。中央でしゃがんでいるのが井門義博 代表取締役社長 【【(c)TOKYO SUNTORY SUNGOLIATH】】

◆次男がラグビーに目覚めた

――「パートナーになって勝てないというのはいかがなものか」という話もありましたが、サンゴリアスがようやく勝ち始めました
(※第6節まで、2敗2分2勝で五分になった時点でのインタビューです)

あの2連敗2連続引き分けで、大変なスタートをきったサンゴリアスが、「ここまで化けるか」と思っていますし、ここから10連勝もあるんじゃないかと期待しています。たしかに「負け負け分け分け勝ち勝ち」ときて、また負け負けとなったら困ります(笑)。「負け負け分け分け」からの「勝ち勝ち」は、ちょっとは予想していました。みんな落ち込んでいるわけでもないわけですし、第5節では垣永さんの100キャップのお祝いがあったので、その時のみんなの様子を見て、これはぜんぜん暗くないなと感じました。勝った試合でしたから盛り上がったのかもしれませんが、「あぁ、体育会はこれだよね」と(笑)。

――垣永選手の100キャップのお祝いの場にも同席を?


いたんですよ。

――ラグビー選手、サンゴリアスの選手と一緒にそのような場を持つというのは、どんな気持ちですか?

夢のようでございます(笑)。

――その中で、特に気になる選手は?

江見ちゃんは昔から一緒にいるのでよく知っているんですが、江見ちゃんはもう少し人とのコミュニケーション能力を磨いてくれよと思いますね(笑)。飲んでいる場においても、どうも彼は大人しすぎるというか、それは学習院の中にいる時も思っていましたね。江見ちゃんは学習院のラグビー部では大スターなんですが、とってもジェントルマンすぎて、みんなに優しいですよね。もっとコミュニケーションが取れるようになったら、図々しさが出たらさらに良い選手になると思いますよ。

井門義博 代表取締役社長 【【(c)TOKYO SUNTORY SUNGOLIATH】】

――それだけ江見選手と近いというのは、息子さんが江見選手と一緒にラグビーをやっていたからですか?

そうですね。私はラグビーを好きなだけで、実際にやったことはありませんでしたが、次男は身体が大きかったんですよ。幼稚園の時点で、長男とは2歳違いなんですが、もう身長で次男が抜いていましたね。そして、身体を動かすことも好きでした。面白い性格でもあり、彼にラグビーをやらせてみました。次男は鉄道にも興味があって、小学生の時に内蒙古に連れて行って、楽しい旅行が出来ました。中学生の時には鉄研(鉄道研究部)とラグビー部の両方に入っていました。あまりそういう人はいないですよね。

ラグビー部は菅平で合宿があるわけですが、次男はそのラグビー部の菅平合宿に行かずに、鉄研の合宿に行ったんですよ(笑)。本音では鉄道の方が好きだったのかもしれないですね。3年生にもなると身体が大きくて、身長は180cmを超えていて、体重も100kgありました。ドタドタと走るんですけれど、中学生くらいだとタックルで止めることはなかなか出来ずズルズル引きずって行ってしまうという感じでした。

そんな試合をやっていたある日、東大和第五中学校という学校に良いグラウンドがあって、東京都の大会をやったりしているその学校でやった試合で、勝てそうな試合だったのに逆転で負けたんですよ。それで次男が「ヤバい、ヤバい」と言い出して、負けたことによって急にラグビーに目覚めたんです。「ヤバい」というのはネガティブな意味じゃなくて、本気になってやらなければ、ということなんです。それからプレーも良くなってきて、高校でもラグビーを続けました。

そして高校の菅平合宿に私も行ったんですけれど、そこに身体がしっかりと出来ている選手がいて、大学から応援に来たコーチかなと思うほどでした。それが3年生の江見ちゃんでした。そこで江見ちゃんのお母さんにも挨拶しました(笑)。見ていたらどうもチームメイトらしいとなって、当時、江見ちゃんはベンチプレスを150kg上げるほどで、体つきがぜんぜん違いましたね。プレーぶりももちろん良いですし、この体つきでどうしてフォワードじゃなくてバックスなんだろうと不思議に思いました(笑)。

実は学習院中等科ラグビー部のコーチは何人か居て、彼らとは今も一緒に遊んでいるんですけれど、殆ど学習院大学ラグビー部のOBです。学習院のOBが社会人でラグビーをやっている時のチームメイトに明治大学のOBがいたんです。明治のウイングをしていました。その人が中等科ラグビー部でコーチをしてくれていて、その人とも年中飲んでいたんですが、私ともうひとりチームメイトの親がいて、その親は青山学院大学でアイスホッケーの選手をしていた人でした。あと早稲田大学でアメフトをやっていた親もいました。

その4人で目白の中華料理屋で飲んだんですけれど、小さい紹興酒しか置いていませんでした。私は最初から「これは今日はヤバいぞ」と思っていて、何本飲んでいるかをきっちり数えていたんです。結局相当な本数まで行って、果たして次に店側が出すかどうかと思ってみていたら、「もうありません」と言われて、あなたたちはもう止めなさいという意味だなと思いました。それで私は目白から電車に乗って渋谷で降りて、ハチ公前改札前の階段で転げ落ちたんですよ。そしたら当時のヤマンバギャルに助けられました。2人連れのヤマンバギャルが「おじさん、大丈夫ですか」と来て、ヤマンバギャルって優しいんだなと驚きましたね。そんなこんなでみんな生きて帰ったんですけれど、4人は誰もどうやって帰ったか覚えていなかったですね(笑)。

【【(c)TOKYO SUNTORY SUNGOLIATH】】

◆鉄研

――どうして息子さんにラグビーを勧めたんですか?そしてなぜ息子さんがやっているラグビーにどんどん入り込んで行ったのですか?

ラグビーが少し好きなだけだったんですけれど、大学では鉄研に居て蒸気機関車に狂っていました。大学時代のあるきっかけからラグビー大好きになるのですが、その頃は蒸気機関車撮影に必死でした。日本の蒸気機関車が終わりになって、次は東ドイツに良い蒸気機関車があって行こうとなったんです。何が良いって、誰も撮っていなかったんですよ。日本で撮影するとなると撮影地は皆開拓されていてそれ以外で撮ろうとしてもたいした撮影は出来なくて、なおかつ僕らのちょっと歳上の人とか10歳も上のような人たちは、熟達の技と良いカメラを使っていたんです。とてもじゃないけれど敵わないわけですよ。

それでもベストは尽くして、高校2年生の時に6×7判という大きなカメラを親に頼んで買ってもらいました。レンズは中望遠の150mmというレンズ1本でした。日本の蒸機最終列車の頃はカメラは2台、レンズも3本くらいになっていたと思います。経験も積み機材が揃ってきているので相当のことが出来ると感じていました。

最後の日本の蒸機列車を北海道夕張へ撮りに行って、同行の5人で「終わった、悲しいね、これからどうしよう」と言っていたそのとき、同行の慶應義塾大学鉄研の先輩が「井門よ、東ドイツに行かないか?」と言ってきました。彼は行ったことがあって、だけれどひとりで行くととっても怖いわけですよ。いつしょっぴかれるか分かりませんし、消息無しで姿を消してしまうかもしれません。そして地元の人たちも結構寄ってきて、「お前は西側の人間だな、服でも下着でもとにかく売ってくれ。売ってくれるまでお前を離さない」とか言ってくる人も現れたんだそうです。それでもみ合いになって、逃げて帰ってきたという状況もあったので、2人組じゃないと、どうにも話にならなかったんですね。それで私がスカウトされたわけです。東ドイツ関税法によりカメラ・フイルムは、持ち込みも持ち出しも禁止で、欧米人は恐れをなして全然行かなかったんです。

蒸気機関車の撮影となると欧米人が何処でも先を行っていたんです。ところが東ドイツには誰も行っていなくて、西ドイツ人は東ドイツに足を一歩も踏み入れられない。だから情報も無いんです。ただアメリカ人やスイス人が西ベルリンからウィーンやフランクフルト行の東独内無停車の連絡列車に乗っていたら、「ここでこれが見えた」とかそういう情報がドイツの鉄道雑誌にちょこちょこ載っていて、わずかながらそれが情報の手がかりでした。鉄のカーテンってドイツのど真ん中を通っていたわけですけれど、その下にチェコスロバキアが隣にあって、ハンガリーがあって、それでユーゴスラビアがあってアドリア海になるわけですよ。反対側はバルト海になるんですね。それで国際列車が結んでいる大幹線に、おそらく蒸気機関車が残っているんじゃないか、となったわけです。

【【(c)TOKYO SUNTORY SUNGOLIATH】】

結局、それは当たりで、本当にそうだったんです。原因はソ連がディーゼル機関車を造っていて、衛星諸国というのは造るものが全て統制されていて、ある国が強くなることを許さない。ソ連としては「この辺のものはあなたの国で造りなさい、この辺はあなたの国で造りなさい」と、それぞれが独立できないように管理していたんです。それで東ドイツ国鉄のディーゼル機関車はルーマニア製と東ドイツ製もありましたが、「大きな蒸気機関車」に相当するような大型機はソ連製だったんです。

ディーゼル機関車は蒸気発生装置がないとダメなんですよ。日本でも客車用電気機関車とディーゼル機関車の中にはボイラーを積んで火を焚く、機関士が必ず面倒を見ていて、もうその頃は軽油と重油を使っていて蒸気を噴き上げて走っていたんです。それで暖房していたんです。でも電気機関車だったら電気直接電気暖房ということもやり始めていました。東北地方や北陸地方は電気暖房になっていて、なぜか北海道は蒸気暖房で、日本もそんな変な状態でした。その頃の東ヨーロッパはぜんぶ蒸気暖房だったんです。蒸気暖房がソ連製のディーゼル機関車に積まれている蒸気発生装置がなかなか信頼性に乏しく、それで仕方なく大型の蒸気機関車、つまりいちばん僕らが欲している急行用大形蒸気機関車を使っていたんですよ。それで楽しみにして撮りに行っていたんです。

向こうに行って分かったことなんですけれど、ベルリン-ドレスデン線というのがいちばんの大幹線なんですけれども、国際列車が東側各国から次々にベルリンを目指して来るんですね。ローカル線でその下をくぐる線があって、そのホームに上がっていって、「よし、いよいよ来るぞ」と時刻表を見ながらこの列車が来ると思ったら、まんまと蒸気機関車が来たわけですよ。狂喜乱舞しましたね(笑)。たくさんの写真は撮れませんでしたが、一応務めは果たしたという感じですね。

東ドイツに入国するためにはビザを取らなければ成りません。東ドイツの国営のライゼビューローという旅行会社でホテル券を買わないとビザが下りないわけですけれど、その時に希望した街を1ヶ所はズラすんですよ。ベルリンとドレスデンを予約しておくと、ベルリンかドレスデンのどちらかに飛ばされるんです。それを防ぐために飛ばしやすいだろうと思うところを加えて、4ヶ所くらいのホテル券を買っていたわけです。
すみませんこんなに汽車の話が長くて。

井門社長の社長室にて 【【(c)TOKYO SUNTORY SUNGOLIATH】】

◆こんなに面白いのか

そんなことをやっている時代に、私はラグビーが見たくなって、秩父宮にひとりで行ったんです。その時は慶應義塾大学塾生でしたが、日本体育大学戦に行きました。ユニフォームも黄色と青で綺麗じゃないですか。勝てると思っていました。秩父宮に入ったら練習するところがあって、アップしているところが見えて、中に入ってメインスタンド側だったかなと思いますけれど、そこで見ていたら「こんなに面白いのか」と、私はそれでやられちゃったわけですよ(笑)。まさかの負け試合でした。

――そこでなぜラグビーを見たいと思ったんですか?

テレビで見ていて、「これは面白そうだ」とずっと思ったんですよ。でも蒸気機関車が終わるまでは、人生のすべてを蒸気機関車に懸けていました。中学受験をする時には何もやっちゃいけなかったので、何もしていませんでしたが、幼稚園の時のお絵描きを見ると、赤い長いやつと青い長いやつを描いていて、赤い長いやつは京浜急行で、青い長いやつはブルートレインなんですよ。それしか描いていなくて、他のものは何も出てきませんでした。病んでいたんでしょうね、今でも病んでいますが(笑)。

それでラグビーが好きになっちゃったんです。それで実はさっきの話の、これは一度江見ちゃんに聞いてみなきゃいけないんですけれど、明治のウイングをやっていた学習院中等科ラグビー部のコーチが、江見ちゃんはそれまでサッカーをやっていて高校に入ってラグビーに興味を持って、ドアを叩いた頃に、「私がバックスをやったらどうか」と言ったと言っているんですよ。それが本当なのか嘘なのかを、聞いてみなければいけないなと思っているんですよ。

学習院高等科の先生に神奈川タマリバクラブの現役選手が2人いました。中等科までは大学ラグビー部OBの優しいおじさんたちが来て教えてくれていたんですけれど、高等科になると突然現役ラガーが教えてくれる感じになったんです。ある日高等科ラグビー部の練習を見学に行ったら中学時代東京都大会優勝した選手がいたチームでしたが、見ていてとんでもなくキレのある動きをしている人がいて、周りがぜんぜん止められないんです。全員抜かれちゃって、見ていたらそれは先生だったんです。高校生はとてもじゃないけれど、こういう動きにはついて行けないんだなと思いましたね。あの人たちがもしかしたら、江見ちゃんをバックスに持って行ったのかもしれません。

――慶應義塾大学と日本体育大学の試合を見て、どこがそんなに面白かったんですか?

いやー、見ていて美しいゲームだなと思いましたね。面白いゲームだなと。走りながら後ろにパスするじゃないですか。あれが美しいと思いましたね。密集になると寄ってたかって取り合いをするし、どっちが人数が多いかで決まるかもしれない戦いですよね。これは血沸き肉躍るなと。

――それで息子さんたちにやらせたかったんですね。三男と四男はどうだったんですか?

三番目と四番目も中学と高校でやりました。それなりに頑張ったけれど、次男が大学ラグビー部に入って、ラグビー漬けの大学生活を見て、大学までは勘弁だと思ったらしいですね。次男は中学の時の負け試合で「ヤバい、ヤバい」と言った時点から見違えるほど変わりました。三男と四男はそういうことが無かったから、続かなかったのかなと思いますね。

【【(c)TOKYO SUNTORY SUNGOLIATH】】

◆忙しくて見られない

――江見選手が3年で、次男が1年という関係だそうですが、それでも江見選手との繋がりは出来たんですか?

そうですね。高校時代に1年間、大学時代に2年間一緒でした。学習院高等科ラグビー部は多いときでも、チームとしては全員で20名しか居ませんでした。だから次男も最初のうちはとても試合で使える感じではなかったと思うんですが、常時グラウンドでは一緒にトレーニングしていたと思います。次男の口からは江見ちゃんの話題がいつも聞こえていました。次男は2年の終わりくらいに怪我をするんですけれどその少し前、学習院中等科高等科正面のグラウンドは結構良いグラウンドなんですね。そこで例の明治のウイングをやっていたコーチが次男を試す為にハイパント!それをキャッチしてパスを回しながら走ったんですよ。それを見ていたら、中学の時の次男と別人だなと。キャッチングも良いし飛ぶように走る、これは素晴らしいと思ったんですね。

そう思っていたら、バックスの練習をやっていて、股関節を脱臼しちゃったんですね。目白か池袋の小さな病院に運ばれて、親の許可がないと全身麻酔が出来ない、全身麻酔をしないと全く手が打てないという状況で、母親が一生懸命車を飛ばして病院に行って、「ママ、遅いよ」って怒られたらしいです。2時間くらい苦しんだんだと思います(笑)。24時間放っておくと脚を失うらしいんですね。なんとかそれを乗り切って、松葉杖をつきながら見学して、そしたら突然、ラグビーに対する知識というかセンスが上がったというか、それまではただプレーしていただけなのに、突進してオフロードパスが出来るようになったんですよ。菅平合宿に見学に行ったら結構良いプレーをしていて、先生に褒められたりもしていました。

ところが菅平合宿で、またもう一度股関節を脱臼しちゃったんですね。その時は居なくて先生が代わりに許可を出して、全身麻酔をして治しました。しばらく上田に入院していて、これはいろいろと問題があるね、関節包が弱いんじゃないかということで手術をやりました。そんなこんなでやっていたんですけれど、大学ではラグビー部が怖がってあまり使ってもらえなかったんです。定期戦では使ってもらっていましたが、対抗戦では使ってもらえなかったですね。少し戻って高校3年の卒業の時は、相手が早稲田実業で結構やられていて、45対0くらいで負けていたと思います。先生たちが優しくて最後に交代で次男を入れてくれて、怪我の治りは2部位でまともには走れない状態で、ともかくグラウンドに立っているだけで良い、ボールが来たら逃げろということで、最後に試合に出させてもらえましたね。そんなこんなで中等科のコーチ陣とか大学のラグビーのOBとかも仲良くなって、江見ちゃんも入るようになって、そこでお付き合いがあって、そういう関係がずっと続いているという感じですね。

【【(c)TOKYO SUNTORY SUNGOLIATH】】

――その後、江見選手がサンゴリアスに入って、サンゴリアスは注目して見ていたんですか?

そうですね。慶應義塾大学のラグビーも応援しているんですよ。そうすると、サンゴリアスに竹本竜太郎さんとか小澤直輝さんが行くわけですよ。鉄研の3歳下に私の相方のような身体が大きい態度のデカい男がいて、大学を出て何年か社会人商社リーグに狩り出されたみたいなんですが、彼を通じて慶應義塾大学OBの人とも知り合いになりました。今から10年ちょっと前くらいから塾蹴球部4年生の最後に感謝の集いをやったらどうかと提案があって、それから感謝の集いをやるようになりました。コロナになって一旦止めたんですが、それがずっと続いていました。

ですけれど、竹本選手や小澤選手がいるサントリーの試合を見にまでは行っていなかったですね。本当は行きたいんですけどね。極度の忙さで見られませんでした。他にもたくさんのお題が課せられていましたが、どれも時間が無くてだめでした。

(後編へ続く)




井門グループ

リテール及び不動産企業グループ。
月賦百貨店 株式会社大丸百貨店(井門大丸、ライフアップ大丸百貨店)を発祥とする。
[本社所在地] 東京都品川区東大井5-15-3 井門大井町ビル
[グループ] 株式会社井門コーポレーション、株式会社井門エンタープライズ、株式会社井門サービス、株式会社井門ホームズ、株式会社井門通商、株式会社井門企画、株式会社井門城東、株式会社井門城西、株式会社井門城南、株式会社井門土地、株式会社井門不動産、株式会社井門リアルエステート、株式会社井門ランドビジネス、株式会社サンフーズ井門、株式会社中国料理井門、株式会社インテリア井門、株式会社ハウジングいもん、株式会社機芸出版社、社会福祉法人ウエルス東京、一般財団法人井門奨学財団

井門 義博
井門コーポレーション代表取締役社長。森村学園初等科・慶應義塾普通部模型工作部鉄道班・慶應義塾高等学校鉄道研究会・慶應義塾大學鉄道研究会。
1981年、西独フランク社より蒸機写真集 Die Letzten 01-Lokomotiven bei der DR 出版
1995年、東芝EMIよりVHS蒸気機関車C623の記録“風”発売
1996年、ワーナービジョンよりVHS蒸気機関車C623の記録“愛惜”発売
1997年、原宿に鉄道模型店Models IMONを開店
東京都品川区出身、東京都渋谷区在住。

(インタビュー&構成:針谷和昌)
[撮影:真壁伸弥]
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著者プロフィール

東京サントリーサンゴリアス(英: Tokyo Suntory Sungoliath)は、東京都港区、府中市、調布市、三鷹市をメインのホストエリアとし、ジャパンラグビーリーグワンに所属するラグビーチームである。 略称は「東京SG」。 練習グラウンドはサントリー府中スポーツセンターに置かれている。 チームは「日本ラグビーを牽引し、世界にチャレンジするクラブへ」という理念のもと、「強く、愛されるチーム DREAM WITH US」をビジョンに掲げている。 また、「PRIDE」「NEVER GIVE UP」「RESPECT」を胸に刻み、変わらぬスタイルである「AGGRESSIVE ATTACKING RUGBY」を貫き、頂点を目指して挑戦を続ける。

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