【道標 Vol.5】東 健一

東芝ブレイブルーパス東京
チーム・協会

【道標 Vol.5】東 健一

【東芝ブレイブルーパス東京】

牧歌的な時代から、少しずつ強化主体の活動へと変わる頃にチームに加わった。
 部の歴史の中で初めて、主務として採用されて東芝ラグビーに加わったのが東健一(ひがし・けんいち)さんだ。

 東海大ラグビー部で3年時から主務を務めた経験を買われて2002年に入社した(スコット・マクラウド、ルアタンギ侍バツベイも同じ時期にチームに加わった)。
 東日本、関西、西日本の各地域でリーグ戦を戦い、年に一度全国大会を戦っていた社会人ラグビーは、2003年から全国を舞台としたトップリーグ(リーグワンの前身)へと移行することが決まっていた。
 東さんが府中の住人となったのは、新時代へ踏み出すタイミング。薫田真広監督誕生の年だった。

 小4のときに多摩ラグビースクールに入り、中学時代まで在籍した。その間、東芝の工場内にあるグラウンドで府中ラグビースクールと交流したり、同グラウンドで開催された大会に出場したこともある。
「だから愛着もありましたし、部の大きさや伝統は知っていたつもりです」

 東京高校ラグビー部で青春時代を過ごし、大学を経て、まさか自分が想い出の名門クラブに入るなんて考えてもいなかった。
「大学時代から主務をしていたとはいえ、学生時代は監督が整えたことのお手伝いがほとんどで、東芝ラグビー部に求められていることは、責任の大きさも仕事の幅も深さも、まったく違うものでした」
 右も左も分からなかったと当時を回想する。

 2003年のトップリーグ元年、同年作られた写真名鑑を見ると東さんの役職は主務となっているものの、実質的には『番頭』が、もっとも適していたかもしれない。
「いまは専門性の高い人たちが各部門にいらっしゃると思いますが、あの頃はスタッフの数も少なく、一人ひとりが、あれもこれもやっていました」

 東さん自身、予算に対する実績管理や、スケジュール、備品、施設の管理も任されていた。通訳もいなかったから、外国人選手のビザの手続きで入国管理局にもよく行った。
 電気、ガス、水道と生活まわりの手配もした。スポットコーチが来た時には、電子辞書片手に秋葉原への買い物にも付き合った。

 当時のスタッフ欄に名前があるのは部長、監督、コーチ、テクニカルコーチ(2名)、総務、主務、渉外担当、トレーナー(2名)の10人だけだ。
 リーグワンとなったいま、各クラブのスタッフ欄には選手数に迫る数の名前が並ぶ。荒岡義和代表取締役社長からアンバサダーの大野均さんまでで26人。事業スタッフまで含めたら全39人の大所帯だ。

「いつも携帯電話で誰かと連絡のやり取りをしていた覚えがあります。外国人選手に、話しかけようと思っても、いつも電話に出ているからそのタイミングがないよ、と言われたこともあります」

 そんな生活は、トップリーグ3連覇を含むいくつものタイトルを手にした薫田監督時代に始まり、瀬川智広、和田賢一と指揮官が代わっても続いた。その間の主将は、冨岡鉄平、廣瀬俊朗、そして豊田真人。
 2010年からの2シーズンは同じ立場で加入した井場勇太との引き継ぎ期間にあてられ、2012年にはチームを離れた。その後は社業に専念しつつ、ラグビー部の試合当日に社内後援会のサポートをすることもやった。

【東芝ブレイブルーパス東京】

現在は株式会社東芝の人事システムのメンテナンスをする部門(人事・総務部 人事企画第二室 プロセスマネジメント・システムグループ)で働きながらブレイブルーパスのファンとしてチームを応援する。
 年に4、5回はスタジアムに足を運んでいる。

 直接触れ合う機会はないけれど、テレビの映像やファンサービスする選手たちに、「人の良さ」を見ると言う。「所作や振る舞いからそう感じるんです」。
「それは、誰かに教えられてそうしているわけではなく、継承されているカルチャーだろうし、クラブハウスなどにいる時に、(漂う空気を)肌で感じて、自分も自然とそうしているのだと思います」

 東さんが若い頃、薫田監督は「親に見せられない」という強烈なキャッチコピーがつくほどの猛練習でチームを鍛えた。
 それが2005年度にはトップリーグ、マイクロソフトカップ、日本選手権の3冠を手にする土台を作ったのだが、そもそも選手たちが、厳しい日々を乗り越えられなければ栄光もなかった。
「それに耐えうる、身を捧げられるパーソナリティを備えた人間が多かったのだと思います」

 フォワードとウイングを兼務した大野均(日本代表最多の98キャップ保持者/現アンバサダー)をはじめ複数のポジションで起用される選手も何人もいて、バックスにフォワードの練習が課されることも普通だった。そんなことからも、「チームに求められることに応えようとする選手たち」の人間性が伝わる。

 そういった献身的な人間性と前述のような人の良さは、いまのチームにも感じるし、これからもクラブの根幹に残していってほしいと願う。
「いまチームを応援してくれている方々がたくさんいるのは、モウンガさんやフリゼルさん、あるいは(リーチ)マイケルのようなスター選手の存在もそうですが、ブレイブルーパスには、その選手たちの陰で献身的に働いている選手たちがいることを知っているからこそ、ではないでしょうか」

「一方的に存じ上げているだけですが、熱を感じています」と前置きして、小さいのにハードタックルを厭わず、前へ出る眞野泰地が現チームのお気に入りと言う。

「同じ時代を歩んだ選手では、オンザフィールドの貢献度と、オフザフィールドのナチュラル感が推しのマイケル。怖い風貌ながら頼れる存在で、細かく、キッチリと仕事をこなす三上正貴。府中ジュニア時代からルーパス愛に溢れ、キャラクターも含めてチームに欠かせない森太志。そして、緩急やキレのある自在なランで華があり、本当に惚れ惚れするプレーヤーと思っている豊島翔平。彼らのことは印象に残っています」
 チームを離れる際、豊島には「あなたのファンです」と伝えたと笑う。

【東芝ブレイブルーパス東京】

何度も優勝の感激を味わわせてもらえた幸せな在籍期間。ただ、頂点に立った数秒後には、翌日以降に待つ多忙なスケジュールが頭に浮かび、素に戻っていたという。
 優勝トロフィーを持った指揮官が、本社の役員など重鎮たちのもとを訪ね、感謝の気持ちを伝えるのが戴冠したシーズンの決勝戦翌日の恒例。アポ取りや分刻みの行動をしなければいけなかった。

 いまとなっては、失敗談もいい想い出となったが、優勝したある年、お酒を飲み過ぎて青くなったことがある。
「当時は府中の寮に住んでいたので、祝勝会が終わった後、トロフィーを自室に置き、また飲みに出たんです。翌日、私がトロフィーを持って薫田監督と合流して役員のもとを訪ねることになっていたのですが、寝坊してしまい、監督はひとりで挨拶に行かれていました」
 そんなことがあって翌年は、都内のホテルに宿泊が許されたという。
「起きてそのまま出掛けられるように、スーツを来たまま寝ました」

 目標を達成した選手たちが最高の喜びを感じる瞬間は、満員のスタジアムで大歓声に包まれることだろう。その一方で、黒子としてチームを支える自分たちが充実を感じられる時間は、人目に触れない。優勝した夜や、ビッグゲームに勝利した夜、スタッフ同士の飲み会だった。

 スタッフは一人ひとり、苦悩する時間があり、孤独を感じるもの。持ち場が違ってもそれが分かり合えるから、「お互いのことを労いながら、笑顔で杯を酌み交わす時間がたまらなく楽しかった」と目を細める。
 ウイングが華麗なトライを奪った時、スクラムをグイッと押し込んだフロントローが心の中で喜びを噛み締める感覚と似ている。

 フィールドの中の人も、外から支える人も、力を合わせて前に進んだ時代は駆け足で進んでいったけれど、いつまでも色褪せない。



(文中敬称略)
(ライター:田村 一博)

【東芝ブレイブルーパス東京】

次のホストゲームは、第12節:3/22(土)15:05より、秩父宮ラグビー場にて埼玉パナソニックワイルドナイツと対戦します。
ぜひ会場で皆様の熱いご声援をよろしくお願いします!!
  • 前へ
  • 1
  • 次へ

1/1ページ

著者プロフィール

東芝ブレイブルーパス東京はジャパンラグビーリーグワン(Division1)に所属するラグビークラブです。日本代表のリーチマイケル選手や德永祥尭選手が在籍し日本ラグビーの強化に直接つなげることと同時に、東京都、府中市、調布市、三鷹市をホストエリアとして活動し、地域と共に歩み社会へ貢献し、日本ラグビーの更なる発展、価値向上に寄与して参ります。

新着記事

スポーツナビからのお知らせ

編集部ピックアップ

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着コラム

コラム一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント