山本昌(元中日ドラゴンズ)50歳まで現役を貫いた“レジェンド”に訊く、一つのことをやり遂げるための「継続力」

【【写真】八木茂樹】

1つのことを続けるのはとても難しい。仕事でもスポーツでも、やり続ければ苦しいことや辛いことに直面し、投げ出してしまう人も少なくないだろう。だが、プロ野球というハイレベルな世界で、32年の現役生活を送り、50歳までマウンドに立ち続けた男がいる。言わずと知れた元中日ドラゴンズの“レジェンド”山本昌だ。
彼は決して恵まれた才能を持っていたわけではない。150kmを超える豪速球を投げられたわけでもない。その中で、なぜ第一線で活躍し続け、超一流の投手へと上り詰めることができたのだろう。その理由を、自身の人生を振り返りながら答えてもらった。

「本当は教師になりたかったんです」。山本昌が学生時代に抱いていた夢

【【写真】八木茂樹】

――山本さんが野球を始めたきっかけを教えてください。

山本:兄が野球を始めたことがきっかけです。父も野球が好きだったので、小さい頃から家族でキャッチボールをしていました。まぁ当時は男の子は野球をやることが普通の時代だったので、やることに何の違和感も感じませんでしたね。

――最初はどこのポジションを守られていたんですか?

山本:はじめから投手でしたね。左投げでしたし、活発な少年でクラスでも中心人物でしたから、周りから自然と投手を任されていました。

――こどもの頃に初めて買ってもらった野球用品のことを覚えていますか?

山本:小学生の時は野球用品一式ミズノだったと思います。中学に上がってからは、GPCという名球会監修の野球用品のグラブとバットを使っていました。

――中学の頃から投手として活躍されていたのでしょうか?

山本:いえ、僕は小学・中学ともに補欠でした。同学年にものすごい投手がいたので、ずっとレギュラーの座につくことができなかったんです。ただ、中学3年の最後の夏、その投手が怪我をしたので、僕が代わりのエースとしてマウンドに立つことになりました。

その時の活躍によって様々な高校からスカウトして頂いたので、この出来事がなければおそらく僕の野球人生は中学までだったかもしれません。

――そうだったんですね。高校時代はいかがでしたか?

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山本:日大藤沢高に進学したのですが、高校2年夏、高校3年夏ともに神奈川大会準々決勝敗退という形で終わってしまいました。もう少し頑張りたかったですけど、準々決勝という壁はあまりにも大きかったですね。

でも、香椎瑞穂監督という名監督のもとでプレーできましたし、チームメイトや練習環境にも恵まれた。この場所で野球を経験できたというのは、その後のプロ生活においても大きかったと思います。

――ちなみに、高校時代はどのようなトレーニングをされていたのでしょう?

山本:高校2年時から先輩と毎朝6km走っていたのを覚えています。自分が最上級生になっても継続して、後輩を連れて走っていたので、とても印象深いですね。

――山本さんは1984年にドラフト5位で中日ドラゴンズに入団されましたが、当時のプロ野球の第一印象はいかがでしたか?

山本:先輩投手の方々がすご過ぎて、はじめはこの世界に入ったことを後悔しましたね(笑)。僕はもともと学校の教師になりたかったので、「やっぱり大学に進んでおけばよかったな」って思いました。

――最初からプロ志望というわけではなかったんですね。

山本:はい。「プロ野球選手になりたいな」という漠然とした憧れは抱いていましたが、目指していた訳ではなかったんです。そもそも日大藤沢高に入ったのも、将来的に学校の教師になりたかったからなんですよ(笑)。同校は日本大学の付属学校なので。

それに僕らの世代というのはレベルの高い投手が揃っていたので、正直「自分には無理だな」と。それでも指名して頂いたというのは、やはりチームや環境に恵まれていたからだと思います。

アメリカ留学で習得した“2種類の変化球”

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――山本さんは現役時代、真っ直ぐの球速は140キロ弱と決して速い方ではなかったと思いますが、それでも打者を打ち取るために何か意識されていたことはありますか?

山本:真っ直ぐをどう投げるか、ということは極めようとしていましたね。たとえ球速が遅くてもコースギリギリに決まれば、そう打たれることはないじゃないですか。そういう打たれない確率を追求して、自分の投球に生かしていたところはあります。

――では、ご自身の変化球に対するこだわりがあれば教えてください。

山本:僕の場合、たくさん球種を持っている、ということがある意味こだわりでもありました。どのカウントからでもストライクを投げられる技術と、変化球のコントロールには自信がありましたので。その中でもカーブとスクリューの2球種は、アメリカ仕込みの特別なボールになっています。

――そういえば、山本さんは1988年にアメリカに野球留学されていますよね。その頃にカーブとスクリューを習得されたということでしょうか?

【【写真】八木茂樹】

山本:はい。まず、日本とアメリカでは野球そのものが違うんですね。というのも、新しい技術を習得する場合、日本ではしっかり練習してから試合で使っていきますが、アメリカだと練習を飛ばして最初から実戦で試すんです。コーチからは「アドバイスしたことはすぐに試合で使いなさい」と言われるぐらい。この違いは随分大きいなと思いましたね。

加えて、アメリカは日本よりも試合数が多いので、より多く実戦で新球種を試すことができたんです。それによってカーブとスクリューを習得することができ、新たな武器として日本に持ち帰ることができました。

「野球をしている時が1番楽」。50歳までマウンドに立ち続けた男の、現役選手に伝えたい想い?

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――山本さんは30歳を超えてからも何度も2桁勝利をされました。歳を重ねても勝ち続けられる、その秘訣はなんでしょう?

山本:体型を維持できたことが大きかったと思います。練習メニューなども歳を重ねるにつれて増やしていき、体をいじめ抜いていたので。その中で、1番の要因として挙げられるのは、鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィングエンタープライズ」の代表である小山裕史先生との出会いです。

30歳を過ぎた頃に初めてお会いし、潜在能力を最大限に引き出すことを目的とした「初動負荷トレーニング理論」を教わったことによって、40歳を過ぎても投手としての体型を維持することができたので。だから現役時代に「歳とったなぁ」なんて感じたことはありません。

――初動負荷トレーニングはイチロー選手が練習に取り入れていることでも有名ですよね。食事の面で気をつけていたことはありますか?

山本:栄養面に関しては、40代になってからは特に気をつけていましたね。やはり太りやすくなってきていたので、奥さんにバランスの良い食事を作ってもらっていました。朝は奥さん特製の野菜ジュースをジョッキ一杯飲んで、晩御飯には必ず大皿いっぱいのサラダを食べさせられまし(笑)。とにかく体に良いものを摂取するようには意識していましたね。

――そういった周りのサポートや、努力の積み重ねがあったからこそ、42歳11か月での200勝を達成することができた。

山本:そうですね。ただ、30歳半ばぐらいまで200勝なんて全く考えたことはありませんでしたよ。初めて意識したのは、2003年7月5日の巨人戦(東京ドーム)。僕はその時で150勝ぐらいで、200勝まではまだ約50勝しないといけない状況でした。

その中で、チームメイトだった立浪和義くんが、その日に通算2000本安打を達成したんです。僕はベンチにいたんですけど、立浪くんがヒットを打った瞬間「おー!すごいなタツ」と喜びが湧き上がると同時に「あっ、俺も50勝ぐらいすれば200勝できるんだ」って。その時に初めて名球会入りを意識したんです。

――そうだったんですね。実際に200勝を達成された時のお気持ちはいかがでしたか?

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山本:勝った瞬間は、あまり実感がなかったのか、すぐには喜べませんでした。ですが、試合終了後にみなさんから祝福されたり、記者会見を開いたり、家に帰って家族から「おめでとう」と言われたりして、徐々に「あぁ、俺すごいことやったんだな」って実感が沸いてきましたね。

――最終的には50歳まで現役を続けまれましたが、年齢を重ねても失われな競技へのモチベーションはどこから湧いてくるのでしょう?

山本:やはりドラゴンズファンからの声援ですね。「山本さん頑張ってください!」「励みにしてます!」といつもお声がけいただくので、その1つひとつの言葉が僕とっての大きな支えとなりました。

――山本さんが、いかにファンの方々から愛されているのかが分かりますね。さらにお聞きしたいのですが、何か1つのことをやり続ける、しかも第一線で活躍し続けるのは大変だと思います。どの世界でもそうですが、その何かをやり続ける上で大切なことって何だと思いますか?

山本:1番大切なのは、やることを習慣にすることです。仕事にしてもスポーツにしても、その世界でやり続けることは「普通」なんだって、僕は思っています。働くことには苦しいこと、つらいことは付きものですから、その全てが最終的に自分のためになると信じて、前に向かっていけばいいのではないでしょうか。

現役を引退して気づきましたけど、僕は「野球をしてた時が1番楽だったな〜」って思いましたよ。練習はキツかったですけど、逆に言えば練習さえしていればいい、好きな野球だけをしていればいい。これって幸せなことじゃないですか。試合の解説を含めて、人前で話をさせていただくようになってから特に思いました。

「野球に打ち込んでいる時が1番楽」。これは現役の選手には伝えたい言葉ですね(笑)。

野球に長く携わってほしい。32年現役を継続した“レジェンド”からのメッセージ?

【【写真】八木茂樹】

――ここからは野球用品について伺いたいのですが、山本さんが現役時代に使用していたメーカーはどこですか?

山本:入団当初はチームが契約していたこともあり、スパイクはアシックスを使用していました。しばらくしてからは、スパイク、グラブ、バットと全てミズノを使っていましたね。あと、現役時代の後半にスパイクだけはワールドウィングエンタープライズ社の「BeMoLo(ビモロ)」を履いていました。

――こだわりはありましたか?

山本:グラブは常に「軽めにしてほしい」とメーカーに要求していました。ミズノは毎年「アドバイザリースタッフ会議」という商品に関する話し合いの場を設けているので、僕ら選手もそこに参加させてもらっていたんです。

そこでシーズン中に感じたことを伝えて、その意見を反映して商品を作って頂いていました。グラブは「軽くて芯があるもの。そして耐久性があって長く使えるものを」と。スパイクは革底の刃が増えると下からの突き上げを感じてしまうので、その部分で違和感がないようなスパイクを要求していましたね。

あとはウェアやジャージに関してもそうです。ウェアはストレッチが効いて余裕があるもの。そして、僕は投手だから大量に汗をかくので、発汗しても快適な状態に保てるよう「吸汗速乾のウェア」にと。ジャージは機能性や形状について意見を出させてもらっていました。

――それを踏まえて、野球用品を選ぶ際のポイントを教えてください。

【【写真】八木茂樹】

山本:グラブに関しては、はじめはオールラウンド用のグラブがいいと思います。少年野球は特に、だいたい全てのポジションを経験するでしょうから、どこにでも対応できるようオールラウンドを買っていただければと。スパイクもお店で実際に履かせてもらって、自分にフィットするのが1番いいと思いますよ。

ただ、買ってもらった商品は必ず大事にしてほしいです。野球はサッカーと比べて道具にお金がかかりますから、手入れをする商品も一緒に買って、一つひとつ大事に扱ってあげてください。

「毎日道具の手入れは欠かさない」。それぐらいの気持ちでいれば、野球はどんどん上手くなると思いますよ。

――ありがとうございます。最後に将来プロ野球選手を目指すこどもたちにメッセージをお願いします。

山本:僕がこどもたちを含め、野球を始める人に言いたいのは、とにかく長く携わってほしいということ。小学・中学生で野球チームに入ったら最後までやってほしいですし、高校で野球部に入ったら、卒業するまでやり切ってほしい。区切りまでやるというのは、とても大事なことだと思うので。

途中でやめることは簡単です。ですが1度やめてしまうと、それが癖になってしまい、大人になってからも何かを続けることが困難になってしまいます。だから野球に関わらず、何かを始めたら区切りのいいところまで頑張って続けてください。そして、ぜひこの素晴らしいスポーツに長く携わってほしいと思います。



【文章】佐藤主祥
【写真】八木茂樹
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