今江年晶が東北で取り戻した笑顔 エリートが知った初めての挫折と復活

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一変した野球人生

ロッテで三塁の定位置を獲得すると、05年の日本シリーズではMVPに輝く 【写真:BBM】

 プロへ進んでも1年目から1軍での出場機会を得るなど、ポジション争いに苦戦しながらも4年目にはサードでレギュラーをつかみ、05年からは背番号が「8」へと変わるなど、名実ともにロッテの顔となった。すると06年の第1回WBCにも出場。世界一に貢献し、日本を代表する選手へと成長を遂げる。ロッテでは05年にリーグ優勝、日本一に輝き、10年にはリーグ3位からの下克上日本一を達成。その両方で日本シリーズMVPに輝くなど、勝負強さはいっそう磨かれ、実績も着実に積み重ねていった。

 そんな中、15年シーズン終了後に大きな決断をする。それが海外FA権の行使だ。その年は死球によるケガもあり、出場数が減っていた。さらにロッテとの2年契約2年目。今後の野球人生を考えたとき、何かを変えるならこのタイミングしかなかった。だが、環境を変えてもレギュラーの保証はどこにもない。これまで応援してくれたファンや支えてくれたチームメート、球団。それらを思うと、寂しさがあふれ出てきた。

 だが、あえてイバラの道を選んだ。それは自身のさらなる成長を望んだから。「迷ったら前に進もう」。家族の後押しも力となり、東北の地へ行くことを決めた。だがその決断により、想像以上に険しい道を歩むことになる。

 移籍初年度はロッテ時代に発症したふくらはぎ痛が再発し、春季キャンプを2軍で迎えた。開幕には間に合ったものの、死球によるケガなども重なり、89試合出場にとどまる。だが何よりも厳しかったのは守備位置のレギュラー争いだったかもしれない。本職のサードにはウィーラーがおり、ファーストには銀次がいる。ロッテの顔だった男は、自らの居場所を見つけられずにいた。

 移籍2年目は、銀次のセカンド兼任によりファーストに定着。筋膜炎による一時離脱はあったものの、レギュラーの座はほぼつかんでいた。しかし、再び不運が今江を襲う。7月27日の福岡ソフトバンク戦で守備中に松田宣浩と交錯し、左手首を負傷。残りのシーズンを棒に振った。クライマックスシリーズには代打で出場したものの、シーズン51試合は05年のレギュラー定着後最少の出場数だ。期待を受けての移籍だっただけに、もどかしさは募るばかり。

「この世界は結果を出したもん勝ちなんですよ。僕は結果を出せていなかったし、ケガによって結果を出す舞台にも立てていない。いろんな感情が湧いてきました」

 試合に出られない悔しさ、そして結果が出ない悔しさ。それらと戦う日々が続いた。小さいころから誰よりも図抜けていた今江にとって、こんな経験は初めてだった。

 これまで順調だった野球人生。それが、移籍によって一変した。

「これは何かのお告げなんだと、今後のためなんだと思ってやらないと、地面の底の、コンクリートの下で僕はもう眠っていたと思います(笑)」

 そう振り返るほど、どん底だった。気持ちを前向きにしておかなければ立ち上がれないほどに……。

支えてくれる妻の存在

15年オフに楽天へFA移籍。新天地での活躍を誓ったが、苦しいシーズンが続いた 【写真:BBM】

 それでも、「移籍の後悔は一つもなかったです」と、その顔に悲壮感はない。「移籍しなかったらそういう経験もできていなかったと思うので。今後の野球人生、いや、野球人じゃなくても、こういう経験はこれからの人生に絶対に生きてくるんやろうなって思いながら過ごしていました。ポジティブにやってないと多分僕はもう、生きてないですね(笑)」と、今では笑顔で語る。踏みとどまれたのはやはり、家族の存在があったからだ。

 自身の性格は「めちゃめちゃネガティブ」というそんな今江を支えたのが、04年に結婚した幸子さんだった。苦しいとき、いつも前向きな言葉をかけてくれた。

「『偶然なんかほとんどない。すべてにおいて必然と思ってやるしかない』と言ってくれて。確かにそうやな、と」

 嫌なことがあると、どうしても「自分だけが最悪なんだ」と思ってしまう。そんなとき、今後のために今があるのだと、視野を広げてくれた。その支えのおかげで踏ん張ることができた。

「嫁さんがいなければ今の自分はないなって、本当に思います」

 どん底だった2年間を終え、返り咲いた。だが、まだまだこんなもんじゃない。「ケガがなければ今くらいは最低限できるかなという考えですし、もっとできるのにな、と思いながら今はいます」。それは打撃だけではない。サードが今江の本当の居場所。本職であるサードは、今でももちろん、思い入れの強いポジションなのだ。

 高校まではショートだったが、プロに入り、自身の肩のことを考えるとサードのほうが自分に合っていると感じるようになっていく。さらにショートには名手・小坂誠がいたこともあり、徐々にサードをやりたいと思い始め、自らコンバートを申し入れた。プロで生き残るために選んだポジション。移籍したからといって、簡単に手放すわけにはいかない。それでも、「僕はサードじゃないと嫌だとか、そんなことを言える立場じゃないですから」と、ファーストや指名打者での出場が続く中でも結果を求め、チームに貢献している。ただ、あきらめたわけではない。ウィーラーとの熾烈なポジション争いに今後も挑んでいくつもりだ。

 移籍により苦しい時間も経験したが、同時にチームが変わったことで新たな楽しみも増えた。

「良い意味でも悪い意味でも、楽天はすごくみんな仲がいいんですよ。チームメートはもちろん、球団の関係者の方もとても温かい。東北という土地柄もあるのかもしれませんが、ファンの方も含め、すごく一体感がある」

 初めての移籍に多少の不安はあったが、PL学園高の先輩である松井稼頭央(現埼玉西武)が気さくに話しかけてくれたことも大きかったという。そして何より、年齢が近い選手が多く、チームになじむのに時間はかからなかった。

「僕は17年目なのでベテランと呼ばれる年齢ですから、年下からはなかなか絡んできてもらえないんですよ。でも同じ年の人がいたら、突っ込んだり突っ込まれたりして、やっぱり楽しいんですよね」

 仙台では、家族と離れて独り暮らしをしていることもあり、「球場、ロッカーに来るのがすごく楽しいんです」とうれしそうに話す。笑顔の源はそこにあるようだ。

 8月26日で35歳となった。だが、今季の活躍は序章に過ぎない。「まだまだ打率も打点も残したい、残せると思っています」。衰えなど感じさせず、まるで野球を始めたばかりの少年のように目を輝かせ、笑顔でプレーをする背番号8の姿がある。チームが下を向きそうなとき、今江がその笑顔で引っ張っていってくれるだろう。大好きな仲間とプレーできる喜びをかみしめながら。

(文=阿部ちはる、写真=川口洋邦、BBM)

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