5カ月前の結末を取り戻した村田諒太 勝った相手の思いも抱え新しい使命へ

宮崎正博

いよいよ追い込まれた末に王者が棄権

エンダムのセコンド陣が試合を止め、村田の勝利が決まった 【赤坂直人/スポーツナビ】

「4ラウンドか5ラウンドで、エンダムがかなり苦しそうなのは感じていました」(村田)

「5ラウンドくらいから自分の体が痛んできていると分かった」(エンダム)

 試合後の双方の証言と符合するように、展開はいよいよ村田一色に塗られた。エンダムは5ラウンド、ノーモーションの右を3連発で顔面をはじかれてたじろぐ。6ラウンドには右をカウンターされ、一瞬、ヒザを落としかけた。続く7ラウンドも最初だけ足を使って流れを変えようと試みたが、すぐにスローダウンする。左のハードジャブに大きくのけぞった。

 ダウンなど決定的なシーンはなくても、アフリカ系フランス人の戦力は著しく褪色(たいしょく)していった。反応も悪くなる一方だ。「これ以上の続行は危険ではないのか」。リングサイドの記者席がそう考え始めた矢先に、エンダムは棄権を決意する。続行を希望する本人を、セコンドが説得してやめさせたのだという。

 世界チャンピオンであったとしても、人生の尺度を考えれば刹那の栄光にすぎない。「かけがえのないものを失ってまでも」とどこまでも突き進むのがボクサーの本能としても、周囲がその後を考えて退却するのも勇気である。エンダム側はまったく正しい判断をしたと思う。

 翻って村田。こうやって雪辱を果たしてみれば、前回の敗戦、それからの5カ月間は貴重な経験になったはずだ。理不尽な判定での敗北であっても、さらに強くなり、水底の深みからはい上がるためには何をすべきなのか。身を切る思いで考え尽くした155日。今後の活動への膨大な資金になる。

巨人がかっ歩する荒野にこぎ出せ

試合後、エンダム(右)が村田に会いに会見場へ。敗れた相手の思いも抱き、村田はさらに前へ進んでいく 【写真は共同】

 放映したフジテレビのインタビュー、メディカルチェックを終え、村田がインタビュースペースに現れたのは、試合終了から30分ほど経過したころ。もう涙は乾いていた。「目を閉じて、そして開いたら夢じゃないかと思ってしまいました」と言いながら、その視線はもう新しい使命にと向かっていた。

「ロンドン五輪での金メダルはさっと獲ったあと、その後に重みを感じることになりました。世界チャンピオンは今このとき、もう重い。プロボクシングはリングで相手の夢を踏みにじって自分の夢をかなえる世界です。踏みにじった相手の思いも抱えて前に進まなければなりません。責任を感じています」

 帝拳プロモーションとともに共同で村田をプロモートする世界的なプロモーター、ボブ・アラムはこの日、リングサイドで観戦した。戦前には「村田は2018年にパウンドフォーパウンド(全階級を通じて最強)のボクサーになる」と語り、この日も米国を軸にした今後の活動に期待を寄せた。村田もさらなる夢を描く。

「皆さんも知ってのとおり、自分より強い世界チャンピオンがいます。そこまで追いつけるように頑張っていくつもりです」

 世界タイトルの17連続KO防衛を記録したゲンナディ・ゴロフキン(カザフスタン)。そのゴロフキンと対戦して引き分けに持ち込んだカネロ・アルバレスは自国メキシコ、あるいはメキシコ系米国人の間で絶大な人気を誇る。そのほかにも、もっとも選手層が厚いとされるミドル級には魅惑のタレントがぞろぞろといる。

 巨人たちの支配する荒野への村田の挑戦は、今、扉をちょいと開けただけの段階にすぎないのかもしれない。

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著者プロフィール

山口県出身。少年期から熱烈なボクシングファンとなる。日本エディタースクールに学んだ後、1984年にベースボール・マガジン社入社、待望のボクシング・マガジン編集部に配属される。1996年にフリーに転じ、ボクシングはもとより、バドミントン、ボウリング、アイスホッケー、柔道などで人物中心の連載を持ったほか、野球、サッカー、格闘技、夏冬のオリンピック競技とさまざまスポーツ・ジャンルで取材、執筆。2005年、嘱託としてボクシング・マガジンに復帰。07年、編集長を経て再びフリーになる

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