稀勢の里が描いた長く穏やかな成長曲線 早熟かつ晩成、横綱の円熟期はこれからだ

荒井太郎

30歳6カ月で初優勝と横綱昇進を決めた稀勢の里 【写真は共同】

 19年ぶりとなる“国産”横綱の誕生に日本中が歓喜に包まれた。横綱貴乃花が土俵を去り、国技と言われる大相撲界に日本出身横綱が姿を消してからも14年の月日が経つ。稀勢の里のこれまでの相撲人生はこの“空白期間”とほぼ重なり、それはそのまま、相撲ファンの期待と重圧を背負い続けてきた歳月の長さでもある。

新入幕は史上2位のスピード出世

 “平成の大横綱”が引退した翌年の平成16年(2004年)11月場所、稀勢の里は貴花田(当時、のちの貴乃花)の17歳8カ月に次ぐ、18歳3カ月という史上2位の若さで新入幕を果たしたが、これは北の湖の18歳7カ月、白鵬の19歳1カ月、さらには大鵬の19歳7カ月をも上回る。当時の相撲ファンの誰しもが、スピード出世で番付を上げてきた10代の若武者の将来に、過去の大横綱の姿と重ね合わせていたものだった。

 年少新入幕1位の貴花田は新入幕場所で負け越したが、稀勢の里は9勝6敗で、史上最年少の幕内勝ち越しを成し遂げた。入幕6場所目の17年9月場所には12勝3敗の好成績で初の敢闘賞も受賞した。しかし、その後は上位の厚い壁に跳ね返され、19歳で新小結となったものの、なかなか三役に定着することはかなわなかった。それでも、恵まれた体格とスケールの大きな相撲ぶりは魅力十分。全盛期の横綱朝青龍を電車道で圧倒するなど、しばしば“大物キラー”ぶりを発揮し、「日本人力士期待の星」として依然、注目を浴び続ける。

 早くから将来の大関、横綱を期待されながら、実績がなかなか伴ってこない現実。周囲の声をよそに本人はただひたすら強くなるため貪欲に相撲に打ち込んでいたであろうが、心のどこかには少なからずプレッシャーも感じていたのかもしれない。当時のことについて、本人はこう振り返る。

「気負ってばかりでしょ(笑)。それでよかった部分もあったしね。そういうのがあってこその今だと思いますし、そこを通って分かった部分もあったし」

稀勢の里を支えた師匠の助言

大関昇進を決めたのは平成23年(2011年)、25歳の時だった 【写真は共同】

 白鵬の連勝を63で止めた歴史的白星が1つの転機となり、翌23年1月場所から関脇に定着。「大関候補」というキャッチフレーズにようやく実が伴うようになり、同年9月場所は12勝をマーク。いよいよ翌場所で大関取りに挑むことになった。大事な場所を前に師匠の鳴戸親方(元横綱隆の里)はまな弟子にこうアドバイスした。

「解説者の中には右の上手を取れという人もいるが、そんな声に惑わされてはだめだ。第一、番付が上の者は、そういう相撲を取らせてくれない。周囲に惑わされず、もっと自分の相撲を信じろ」

 稽古では突き押しに徹し、最大の武器である左おっつけは一層、磨きがかかった。同時に「平常心」の大切さも説いてくれた師匠だったが、場所の1週間前に急死。大きな悲しみに打ちひしがれながらも「自分の相撲を信じて」「平常心」を貫き、25歳の稀勢の里は大関に昇進したのだった。

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著者プロフィール

1967年東京都生まれ。早稲田大学卒業後、百貨店勤務を経てフリーライターに転身。相撲ジャーナリストとして専門誌に寄稿、連載。およびテレビ出演、コメント提供多数。著書に『歴史ポケットスポーツ新聞 相撲』『歴史ポケットスポーツ新聞 プロレス』『東京六大学野球史』『大相撲事件史』『大相撲あるある』など。『大相撲八百長批判を嗤う』では著者の玉木正之氏と対談。雑誌『相撲ファン』で監修を務める。

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