楽天・宮川、諦めず戻った1軍マウンド 「3桁の背番号は2度と着けたくない」
右肘痛の始まりと育成落ち
背番号は「121」から「90」となったが、15年には再び3桁に逆戻り。故障もあり苦しい時期を2軍で過ごした 【写真:BBM】
「1年目はロングリリーフが多かったですけど、勝ちゲームで起用されることもあり、投げる間隔も空いていたんです。でも、2年目は一転して最下位ですから。連敗もある中で体の回復が追いつかなかった。痛くても、我慢しながら投げていた部分も確かにありました」
状態が悪い中で投げ、打ち込まれて2軍落ち。キャッチボールでも痛みが出たため検査したところ、右肘の肘頭疲労骨折が判明した。「疲労骨折というのは普通、じん帯が緩んできて不安定な中で投げると起こるものですけど、僕の場合は直接骨に負荷が掛かったようです」。シーズン終了後の10月15日、ヒジの別部分から骨を移植する手術を受けた。
退院すると、球団から呼ばれた。「まさか、戦力外か……」と身構えたが、その内容は「育成として1年間しっかり体を作り、次の年にまた支配下に戻れるよう頑張ってくれ」というものだった。最悪の事態は回避されたが、だからといって未来が見えてくるわけでもなかった。
後輩に習った不屈の精神力
長く先の見えないリハビリ。支えとなったのは同志の存在だった。2歳下の右腕・釜田佳直もまた、13年秋に右肘にボルトを埋め込むと、14年春にはトミー・ジョン手術を行い、復帰を目指していた。
「ウエートルームには音楽がかかっているんですけど、釜田はいつもイヤホンをつけて黙々とトレーニングに励んでいる。一方の僕は当初、1軍の試合を見る度に焦りや歯がゆさを感じたりして……。気持ちの波が大きかった。でも釜田には不屈の精神力みたいなものを感じたし、この姿勢を見習わないとなと思えました。年下ですけどお手本になるし、本当に尊敬できるヤツですよ」
気持ちは熱く、頭は冷静に
「ヒジの状態がどうこうと言える立場でないのは分かっています。今年ダメなら終わり。しっかりやろうと思っていました」
崖っぷちの男には、一方で興味深い現象が起こっていた。ストレートの最速が147キロから151キロにアップしたのだ。
「リハビリ期間の1年半の間にしっかりと体を鍛え直せたのも大きいですし、投げられなかった期間に自分を見つめ直せたと思います」
フォーム自体は大きく変わっていない。変化があるとすれば、自身の内面だという。
「1軍の試合をテレビで見ながら、自分だったらこうするとか、冷静に野球と向き合えるようになった気がします。マウンド上であれこれ考え過ぎなくなった。気持ちの余裕も出てきて、力みも少なくなりました」
気持ちは熱く、頭は冷静に――。これは大体大浪商高時代に習ったことだが、今になってやっと、真の意味を理解できたという。
「緊張で舞い上がったデビュー戦、日本シリーズとは違う姿、成長した姿を見せることができていると思います」
「育成出身」を売りにしない
復帰後は中継ぎでの登板が多かった宮川(写真左端)だが、まずまずの投球内容。17年が正真正銘、勝負の年となりそうだ 【写真:BBM】
また、育成での経験が自身を成長させてくれたという実感はあるが、「育成出身の――」というキャリアを売りにするつもりはない。
「言い方は悪いですけど、僕が背負っていた3桁の背番号では、プロ選手じゃないと思っていました。『プロ野球選手になりたい』、『プロ野球選手に戻りたい』という一心で練習してきたわけですから、この番号はもう2度と着たくないです」
最初に支配下登録されたとき、「スタートラインに立った」と表現した宮川。ならば、これは2度目のスタートラインとなる。今までとは違った“宮川将”を見せるつもりだ。
(文=富田庸)