苦しみもがく名門・国見の現在地 “小嶺イズム”から新たなる伝統へ
名将の離任により崩れたパワーバランス
名将・小嶺忠敏が07年にチームを離れて以来、全国大会から遠ざかっている名門・国見 【ひぐらしひなつ】
笑顔と歓声が弾けるなか、常に人だかりの中心にいたのは、Jリーグ史上初の3年連続得点王・大久保嘉人(川崎フロンターレ)だ。ときにはゴール前で身を投げ出し、息が上がるまで子供たちと駆けずり回る。他にも綱田大志(カマタマーレ讃岐)、有永一生(AC長野パルセイロ)、渡邉三城(Y.S.C.C.横浜)らJリーガーの姿が見え、プロもアマチュアも一緒くたになって楽しくボールを追った。
彼らをはじめとする数多くのプロ選手や指導者を輩出してきた長崎県立国見高校が、“サッカーのまち・国見”を、常にけん引してきた。1986年に高校サッカー選手権大会の全国大会に初出場し、いきなり準優勝の快挙を遂げたのを皮切りに、21年連続で長崎県代表として君臨。その間6度の全国優勝を果たし、“強豪”の名をほしいままにする。インターハイでは5度、全日本ユース選手権でも2度の全国制覇。輝かしい実績は九州西端の片田舎の小さな町に、大きな喜びと誇りをもたらした。
その名門が、近年は全国大会から遠ざかっている。名将・小嶺忠敏が2007年1月に国見を離れると、その秋に行われた第86回選手権は県予選準々決勝で、続く第87回は同準決勝で敗退。翌年から2年連続で再び県代表の座を奪還したものの、決勝や準決勝で蹴落とされてきた島原商、長崎日大といったチームが代わる代わる顔を出すようになり、さらには07年秋から小嶺が指揮を取るようになった長崎総科大附属が、12年度から3年連続で全国行きの切符を手にした。15年度は、長崎南山が初出場を果たしている。
強靭(きょうじん)なフィジカルを持つプレーヤーが長いボールを駆使して速く攻める長崎総附の勇壮なスタイルは、かつての国見そのものだった。その変わらぬ戦法に全国の高校サッカーファンが「小嶺先生が帰ってきた」と沸いた陰で、国見は多大な影響力を持つ指揮官を失った揺り戻しに襲われていた。
恩師の残像と少子化の波に苦しむ
あまりに強烈な過去のイメージも、彼らの新たな挑戦を困難にした。周囲から求められる“国見像”が確固としてあり、新体制で目指したスタイルは、すぐに結果が出ないと否定的なニュアンスで語られることもあった。前任者の功績が大きければ大きいほど、それを乗り越えるのは至難の業だ。濃密なキャラクターの持ち主である恩師を上回る印象付けも、そうそう容易ではない。
少子化と過疎化の影響も重くのしかかった。特待生制度や推薦入学を武器に選手を集める私立高校と同じ土俵に立つと、公立高校の魅力をアピールすることは難しい。まして最近は戦績が陰っているとなれば選手や保護者の目先も移りがちだ。ここ数年の長崎県内では、ここでも圧倒的な存在感を誇る小嶺が指導する長崎総附や、創部5年目にして優勝争いに絡んでいる創成館が人気校となっている。そんな事情もあり、かつては100人を下らなかったサッカー部員が、現在はわずか40名足らず。国見中に至ってはメンバーが足りず、単独では公式戦出場もままならない。徳永悠平(FC東京)や渡邉大剛(大宮アルディージャ)・千真(ヴィッセル神戸)・三城兄弟らが育った多比良サッカースポーツ少年団も、近隣チームとの合併を余儀なくされ、地元出身の選手も少なくなった。
部員が減ると、個々への目配りは行き届く代わりに、ピッチ外のさまざまなところにも影響が及ぶ。少年団への出張スクールや他カテゴリーのチームの応援に出向くことが減り、地域と交流する機会は以前より少なくなった。
そのような苦境でも、栄光を知る先輩や地元支援者たちのバックアップは、衰えることなく心強かった。反面、若き指導者たちを少年時代から見守ってきた彼らの情の厚さが、裏を返せば老婆心ともなり、残念ながら現場周辺に混乱を招くことがあったのも否定できない。それぞれのサッカー観や哲学に基づいて差し伸べた手が一体となれず、あちこちで模索する状態が続いた。