反骨精神と歩んだ大西勝敬の指導者人生 フィギュアスケート育成の現場から(12)
スパルタから指導スタイルが変化
五輪シーズンを前に自らのもとにやって来た町田樹(右)。ソチ五輪までたどり着いた 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】
「加納なんかの頃はそうですね」
それがいつしか変わったと言う。
「変わったと言っても、この10年くらいです」
変わったきっかけが特にあるわけではなかった。反骨精神から、勝つことに執念を注いできた。選手を成長させようという思いも人一倍、強かった。だから、とことん、伸ばす方法を考え続けた。その時間の中でたどり着いた答えがあった。
「どうやったら子供を育てられるんだろう、どうやったら思いが伝わるんだろうということでした。何十年の間、ずっと考えていた。でも結局、なかったんですね。そして気づいたのは、子供は十人十色なんだということ。それぞれに合わせてやったらどうなるんやろう、と思うようになったんですね。そのとき、スパルタがなくなった。それがここ10年くらいです」
スパルタから指導スタイルが変化した大西のもとにやってきた選手がいた。ソチ五輪シーズンを前に悩んでいた町田だった。
以前の取材で、大西は当時をこう振り返っている。
「『何が目標や』。そこから話は始まりました」
話す中で、もっとも気にかかったのは町田の意識だった。
「とにかく弱気だった。『僕は6番目ですから』とか、そんな発言ばかり」
そこから変えようと試みた。
町田の「覚悟」、大西の「勝負へのこだわり」
そんな柔軟性は、スパルタを脱した大西だからこそだった。
一方で、勝負へのこだわりは変わらなかった。町田を勝たせたい、そう考えていた。
大西は、当時をこう語っている。
「まさに命懸けの練習でしたね」
町田も当時をこう言葉にしている。
「これ以上はできないというくらいやりました」
そこまで突き詰める練習をなしえたのは、町田の「覚悟」、大西の「勝負へのこだわり」、つまり選手を勝たせたいという執念の融合でもあった。
「自分のスタイルを、ただ一辺倒じゃなく選手ごとに見るように変えることができたのは、命がけで教えてきて、ときに苦労もあって、そんな経験を積んだからかもしれないですね」
ふと、大西は言う。
町田がソチ五輪へとたどり着いたのは、大西がとことん教えたスケーティングの向上にもあった。
今、大西は、スケーティングをめぐり、日本のフィギュアスケートの今後に、危惧(きぐ)を抱いていると言う。
(第13回に続く/文中敬称略)