発祥の地で見えた、パラリンピックの歴史と現実=現地取材記
さらなる認知が必要な障害者スポーツ
64年の東京パラリンピックのコーナーもあり、多くの人が展示品を眺めていた 【スポーツナビ】
その中には日本障害者スポーツ協会の大久保晴美技術委員会委員長、荒木雅信理事の姿もあった。「少し(ロンドンを)抜けてきました。どうしても見ておきたかった」(大久保委員長)。2人は展示品の数々と競技施設を丹念に見て回っていた。「このスタジアムは質素で簡素です。ただ、多くの選手がこの地でトレーニングをして活躍している」(大久保委員長)。日本ではどうしてできないんでしょうかと率直に尋ねると、「日本でも今あるトレーニング施設を少し作り直すことで可能になるはずです。仕組みの問題でしょう」(大久保委員長)という答えが返ってきた。
多くの観客で会場が埋まっているパラリンピック。その中にも英国国民の障害者スポーツへの関心の高さが見て取れる。荒木理事は言う。「理解度が高いんです。スポーツが文化としてしっかりと根付いている。(会場には)家族連れが多いでしょう」。たしかに、会場では親子でいる姿がよく目につく。その迫力を目にした子どもたちは、大人になれば自分の子どもたちを会場へと連れ出すだろう。「だからこそ、多くの人に生で見てもらいたいのです。そのパフォーマンスの素晴らしさが伝わることでしょう。それを見ることで人の心は変わってくると思うのです」(荒木理事)。2020年に誘致を目指している東京に、五輪とともにパラリンピックが来れば、施設の充実化とともに障害者スポーツへの認知は高まるだろう。
今以上の理解と認知が求められる障害者スポーツ。荒木理事と大久保委員長から話を聞くことができた 【スポーツナビ】
お2人と、まるで講義のような話をした後、ストーク・マンデビルスタジアムを出て、パラリンピック会場への帰途に就いた。会場近くの駅はこの日も多くの観衆でごった返していた。グットマンは『It’s ability, not disability, that counts.』(※失われたものをかぞえるな、残っているものを最大限に生かせ)という言葉を残したとされている。この日も選手たちは自身が持てるすべての力を出してくれるのだろう。英国で発祥したパラリンピックは64年のときを経て、世界を魅了するイベントへと発展した。
<了>
(取材・文/大迫拓郎)
※公益財団法人 日本障害者スポーツ協会ホームページより引用