グアルディオラとモリーニョ、哲学と信念の激突=玉乃淳のクラシコ分析
グアルディオラが正しく、モリーニョは間違っている?
モリーニョ(左)のフットボールに対する信念や自信が表現された試合でもあった 【Getty Images】
一方のグアルディオラはといえば、多くの元代表選手が現役時代の栄光にすがり「サッカー」の勉強を怠っている現状の中、元スタープレーヤーということを微塵(みじん)も感じさせない戦術論者であり、まるで哲学者のような風ぼうだ。指揮官との確執によりバルセロナ退団に追い込まれたイブラヒモビッチがグアルディオラのことを「哲学者」と皮肉を込めて吐き捨てたのも、今となっては最大の賛辞に聞こえてしまうのは、わたしだけであろうか……。
クラシコは、指導者のレベル低下の話題の対曲線にいる、2人のスーパー監督が率いる両チームが激突した。両指揮官が強烈に醸し出すフットボールに対する情熱と、全く異なった哲学がどのような形で未来のフットボールに影響を与えるのか、そんな点に注目しながら観戦することにしていた。結果はご存じの通り、3−1とバルセロナが圧倒的な強さを見せつけた。誰もがグアルディオラの手腕を称賛したことだろう。だが、ここであえて問いたい。グアルディオラの目指すバルセロナのサッカーがすべて正しく、モリーニョのコンセプトがすべて間違っていると、一言で決めつけていいのだろうか?
完敗の中で見えたモリーニョの信念
危険なエリアでボールをつなごうとしたGKバルデスがミスをして失点した後も、コンセプトを一切変えることはなかった。その後もビルドアップに徹したバルデスのプレーに象徴されるように、バルセロナはどのエリアでも三角形を多く作り、ビハインドにも全く慌てることなくボールポゼッションを重視した。あの完全なるアウエーの中でも堂々と、淡々とプレーをしていた選手の背後には、クライフをはじめ、レシャック、ライカールトら、歴代のバルセロナの血を作ってきた男たちの残像が見え隠れしていた。
そしてレアル・マドリーの方も、モリーニョが得意とするカウンターアタックで前線のスピードあるタレント軍団を生かす戦いに終始した。選手交代を見ても、指揮官の信念はうかがい知れた。負けているのだからもっと攻撃的な交代を……とも思ったが、モリーニョはあくまで自らのコンセプトをピッチに投影できる、似たようなタイプ同士の選手交代に徹した。スタンドから見渡しても、モリーニョのチームであることは90分通して分かった。それがバルセロナのように華麗で理想型かどうかは別にして、リーグ優勝することと同じくらい難しく、また監督の仕事として一番大事な部分ではないだろうか。
確かに、バルセロナが圧倒した試合内容であったことは明らかで、イニエスタがピッチ上の神のように光り輝き、メッシはクリスティアーノ・ロナウドより断然優れていることを証明した。しかし、現在リーグ首位に立っているのはレアル・マドリーであるということを忘れてはならない。物足りなく映った選手交代が不気味であり、そこには確固たる信念と自信が見えた。
試合前にわたしが失笑した「長いシーズンの中の1試合」というモリーニョの言葉が走馬灯のように思い出される。振り返れば、ペジェグリーニは驚異的な勝ち点を積み上げるも優勝は果たせなかった。モリーニョも同じ道をたどるのだろうか。いや、クラシコでの完敗を目の当たりにしたにもかかわらず、「ひょっとしたらモリーニョなら……」と思わせてしまうところが、彼がカリスマ監督たるゆえんなのかもしれない。グアルディオラへの称賛の一方で、モリーニョのフットボールに対する信念や自信が表現された試合でもあった。
「わたしはバルサのようなサッカーはしない。2番手になりたくないからね」。こう言い放つモリーニョのような強烈な個性と野心を持った監督がこの先もっと現れない限り、世界中のチームがバルセロナをまねた、傘下チームのようになるだろう。そうなれば、バルセロナに勝てる可能性があるのはモリーニョのみということになりかねない。世界中の監督はこの試合をどのように見たのだろうか。今回のモリーニョの敗戦を鼻で笑う監督が多かったのか、あるいはバルセロナを超えようとする信念に魅了された監督が多かったのか。クラシコはまたひとつ、今後のサッカー界の未来の発展を示すヒントを与えてくれた。
<了>