浅田真央を変えた佐藤コーチの信念=トリプルアクセル回避でつかんだスピード感

野口美恵

「いずれは真央にも分かってほしい」

SPを終えたその日の夜、佐藤コーチと話して変化が訪れた 【坂本清】

 彼女の心の変化は、その夜に訪れた。
 SP後、佐藤コーチと真央が一緒に夕飯を食べたときのこと。佐藤コーチはこう言った。
「今日は、ダブルアクセルにしていればもっと得点は出たと思う。決してトリプルアクセルを諦めるということではないから。今回は自分の判断として挑戦したけれど、いずれは真央にも分かって欲しい」

 いずれは真央にも分かって欲しい――。
 選手に命令はしないと決めていた佐藤コーチだったが、すでに丸1年待ち続けてきた。こらえきれない気持ちが溢れた。この時、浅田の中で何かが変わった。
「今までは絶対に自分がトリプルアクセルを跳びたいから跳ぶんだって、そう思っていました。でもあの夜、信夫先生に言われて、揺れる自分がいました。気持ちが変わり始めていました」
 浅田は考えた。なぜ佐藤コーチがそこまでダブルアクセルにこだわるのか。そしてスピードのある演技にこだわるのか。そして一夜が過ぎた。

「高難度のジャンプがなくても、質のいい演技をすればいい」

 FSの朝、公式練習。いつもであればトリプルアクセルに固執して、時間いっぱいまで何本も練習するはずの浅田。しかしこう言った。
「先生、1回だけトリプルアクセルやってきます」
 そういってトライすると、やや回転が足りないものの片足で着氷した。去年ならば間違いなく本番でも挑戦していた仕上がりだった。しかし浅田は、もうトリプルアクセルを跳ばなかった。何より、スピードをのある演技にこだわり、最後までスピードを落とすことなく練習時間を滑りきった。
「私は今年、いつもとは違う自分をシーズン初戦から見せるというのが目標だったはず。しっかり、信夫先生の理想とするスピード感のある演技をやろう」

 そして浅田は自分の試合直前に、男子のSPを観戦。そこで、自分の考えを確信する。今回の男子SPでは、高橋大輔(関大大学院)も小塚崇彦(トヨタ自動車)も4回転を跳ばなかった。2人とも、スピードのある滑らかなスケーティングと安定したジャンプで他の選手を圧倒し、1、2位発進。4回転ルッツを成功させたブランドン・ムロズ(アメリカ)は、国際スケート連盟公認大会では初成功となる大技を入れながらも3位発進だった。
「高難度の4回転を入れなくても、他の部分で質の良いものをすればいいんだ」
 浅田の心は決まった。
「今の状態では、トリプルアクセルの回転が足りていないので、今回は間に合わなかったということにします」
 初めての回避だった。

「跳ばないことは、マイナスではない」

フリーではダブルアクセルで高い評価を得ると、その後もスピードに乗った演技で会場を魅了した 【坂本清】

 FSは昨シーズンから継続して使う『愛の夢』。愛らしいメロディとともに、柔らかなスケーティングで滑り出す。そして冒頭、スピードを生かした流れるようなダブルアクセルを決めた。ジャッジの評価は9人中5人が「+2」と高評価。フリップ、ルッツと連続して決めていく浅田の演技に観客が引き込まれていく。
 中盤には、「ダブルアクセル+3回転トウループ」の連続ジャンプを成功。着氷後に流れのあるダブルアクセルを降りたからこそ、2つ目の3回転ジャンプをしっかりと回り切ったのだ。後半になるほどスピードが増し、ストレートラインステップでは、ワンフットステップで一気にリンクの3分の2まで流れていく、男子にも難しい見事なエッジワークも披露した。

「スピードを出してワーっと滑っていくことで、お客さんもワーっと自分の演技に入ってくる感覚。それをやっと自分の体で感じることができました。こうやって(トリプルアクセルを)跳ばない方法も、マイナスではないんですね。スピード感が最後まで途切れることなく、信夫先生が目標にしているものにちょっと近づくことができました」

 何のためにトリプルアクセルを回避したのか。それは単に、転倒を回避するという小さな話ではない。他の部分でスピードのある演技をしっかりとするためだ。その佐藤コーチの真意を、浅田は感じ取ったのだった。

 佐藤コーチは言う。
「昨日の夜、彼女は変わったのかも知れませんね」

 孤高のアスリートであった浅田は、自分しか信じるものがなかった。しかし今回初めて、コーチの意見を聞いて、自分の意思を変えた。
「自分の分からない所とか、聞きたい事を聞いて、日本語でコミュニケーションを取れるということ、これが本当に大きいんです。今、先生とも同じ方向を向いているな、というのをすごく感じています」
 話しながら何度もうなずく浅田。そして照れ隠しするように「でもたまに信夫先生、単語は英語になるんですけどねっ」と小さく噴き出して笑った。

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著者プロフィール

元毎日新聞記者、スポーツライター。自らのフィギュアスケート経験と審判資格をもとに、ルールや技術に正確な記事を執筆。日本オリンピック委員会広報部ライターとして、バンクーバー五輪を取材した。「Number」、「AERA」、「World Figure Skating」などに寄稿。最新著書は、“絶対王者”羽生結弦が7年にわたって築き上げてきた究極のメソッドと試行錯誤のプロセスが綴られた『羽生結弦 王者のメソッド』(文藝春秋)。

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