アイルランドはアイルランドが嫌い

 18歳で父親になった。21歳で代表チームを引退し、22歳の時にははげていた。スティーブン・アイルランドはそういう男で、彼の人生では何もかも早く過ぎていくようだ。マンチェスター・シティ(マンC)で地位を築いた彼は、今ニューカッスルでプレーしているが、そこは6カ月間で3つ目のクラブである。

 6試合で4ゴールは、アイルランド代表史上でも最高クラスのスタートだった。ところが、スティーブン・アイルランドはアイルランド代表を引退してしまった。そして、彼のコメントを聞けば、そう簡単に復帰しないと思える。
「カムバックするつもりはない。代表チームに関しては何も感じないんだ。負けても罪悪感を感じないし、勝った時も自分がプレーしたという気がまるでしない」

 アイルランドと代表チームの問題は、ユーロ(欧州選手権)2008の予選(チェコ戦)に始まっている。試合の48時間前、彼は試合後になるべく早く帰国するため、プライベートジェットを用意してくれるよう協会に要請した。ガールフレンドが流産したからだ。ところが、彼はその時に本当の理由を言わなかった。まるで子供がウソをつくように、「祖母が死んだから」と言った。
「離陸する前、僕は単に家庭の事情だとスタッフに話していた。ところが、着陸して3時間後には皆がそれを知っていた。仕方がないのでおばあちゃんに電話して事情を話したら笑っていたよ」

 アイルランドは、人々がすぐにこんなことなど忘れてしまうだろうと思っていた。しかし、そうではなかった。タブロイド紙はこの一件を書き立て、スキャンダルとして扱った。アイルランドはそれを口実に代表引退を表明したが、後になってこう告白している。
「正直、代表には興味がなかった。僕らはクラブで年間60試合もする。その上、アンドラへ行くために3日間もかけるのは気が進まなかった。承知の通り、アイルランドがワールドカップで優勝することもないしね」
「ユースの時から嫌だったんだ。苦痛だった。僕以外の選手はダブリンから来ていて、僕だけがコークだった。1人で電車に乗り、1人でタクシーに乗って行かなくてはいけない。キャンプにはホテルもなければ食事もない。プロのマネジメントではなかったよ」

 ここまでの発言から想像される通り、アイルランドは代表チームだけでなく、国自体にも愛着を持っていない。
「いつの日か、アイルランドに帰るかもしれない。それは分からない、というか興味がないんだ。コーク? あんなところに住むなら死んだ方がましだ。僕はむしろLA(ロサンゼルス)に住みたいんだよ」
 ジョバンニ・トラパットーニ監督は、アイルランドが代表に復帰すると信じているが、当の本人は全く乗り気ではない。それには別の理由もある。
「アイルランドのクラブでも、英国人ならばOKなんだが、それ以外の外国人が監督になると問題が生じる」
 アイルランドはマンCのアンカーマンになるはずだった。マンチェスター・ユナイテッド(マンU)のライアン・ギグスやリバプールのスティーブン・ジェラード、ミランのパオロ・マルディーニのように。本人はマンUのファンだったが、マンCの重要な選手となり、特に08−09シーズンには『マンチェスター・イブニングニュース』紙の読者投票で最も偉大なマンチェスターの選手に選出された。通常、マンUが優勝したシーズンはマンUの選手が選出されるのが恒例だったのだが、それを覆して受賞した。アイルランドは“ボックス・トゥ・ボックス”の選手として、ファンの心をがっちりつかんでいたのだ。

 プレミアリーグで勝利するには、彼のような選手が鍵になる。攻めて、守れて、チャンスを作って、得点する選手が。当時マーク・ヒューズ監督が率いていたマンCでは中核を担っていた。アイルランドよれば、シェイク・マンスール会長も彼を気に入っていたという。チームの中心になるにつれ、少々ばかげた行為も許容されるようになっていった。レンジローバーをピンク色に塗ってみたり、自宅に6メートルの水槽を作ってサメを飼おうとしたり(結局、断念)。それもご愛嬌(あいきょう)とみなされていた。ゴールした後、スーパーマンのボクサーパンツをスタンドに投げ入れても怒られなかった。

 しかし、マンCとアイルランドのラブストーリーは09年に突然終わってしまう。ロベルト・マンチーニが監督に就任し、際限なしの補強を行うと、アイルランドはその他大勢の1人になってしまった。
「マンチーニは僕が気に入らなかったようだ。すぐにベンチに座らされた。マンチーニはヒューズの選手を使わず、自分の選手でチームを固めようとした。クラブ内のやり方も全部変わってしまい、調理師すら変わった」
 そして、「マンチーニが来てから、シティのサッカーはひどく退屈になった」。

 アイルランドには、プレミアのビッグ4からオファーが来たが、マンCはビッグ4に選手を売ることをかたくなに拒んでいた。そのため、マンUやリバプールと契約する代わりに、アイルランドはアストン・ビラに行くことになった。ジェームズ・ミルナーとのトレードでアストン・ビラに行ったのだが、アイルランドが頼りにしていたマーティン・オニール監督は、彼がバーミンガムに到着する前に解任されてしまう。新監督のジェラール・ウリエは、マンチーニ同様、徐々にアイルランドをベンチに追いやっていった。プレーすれば、マン・オブ・ザ・マッチに選出されたチェルシー戦のように活躍するのだが……。

 ウリエ監督はアイルランドに引っ越すように促していた。実はほかの選手たちも全員がバーミンガムに住んでいるわけではない。ただ、アイルランドが住んでいるマンチェスターからは毎朝1時間15分もかかる。結局、1月にはニューカッスルへ移籍することになった。ニューカッスルのアラン・パーデュー監督はアイルランドの加入を強く望んでいた。しかし、アイルランドは負傷し、ようやく今週末に復帰できるかどうかという状態であり、来季もニューカッスルにいるかどうかは分からない(編注:週末のウォルバーハンプトン戦には出場せず)。

<了>
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著者プロフィール

1965年10月20日生まれ。1992年よりスポーツジャーナリズムの世界に入り、主に記者としてフランスの雑誌やインターネットサイトに寄稿している。フランスのサイト『www.sporever.fr』と『www.football365.fr』の編集長も務める。98年フランスワールドカップ中には、イスラエルのラジオ番組『ラジオ99』に携わった。イタリア・セリエA専門誌『Il Guerin Sportivo』をはじめ、海外の雑誌にも数多く寄稿。97年より『ストライカー』、『サッカーダイジェスト』、『サッカー批評』、『Number』といった日本の雑誌にも執筆している。ボクシングへの造詣も深い。携帯版スポーツナビでも連載中

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