アフリカの誇りは守られたか=ガーナの8強、残り5カ国はGL敗退という事実

木村かや子

構造的問題 政府の介入

エトー(写真)率いるカメルーン代表は何もインパクトを残すことなく大会を去った 【(C) FIFA/FIFA via Getty Image】

 奇跡のおかげでW杯行きを決めたナイジェリアもまた、今回あまり期待されていなかったアフリカ勢の一角だった。彼らがいつの日かW杯ベスト4に至る最有力候補に見えていたのは、そう昔のことではない。そのため国内での期待はいまだ高く、先のアフリカネーションズカップ後、同大会を3位で終えたにもかかわらず、監督が首になるという事態が起きていた。さらに今大会の敗退後には、大統領が代表チームの国際試合を2年間禁止すると発表。代表チームの不振はナイジェリアサッカー界の構造の問題に起因し、これを改革し組織を機能させるためには、国際試合を断念する必要がある、というのがその理由だった。

 エムボマは「指針のない協会が多く、組織面をより機能的にする必要がある」とも言っており、実際、改革は必要なのかもしれない。しかし何かあるごとに政府が目頭立てて介入してくる傾向にもやや問題がある。一度敗れただけで衝動的に監督を代えるようなことも多く、代表チームの周辺は常に騒がしい。

 それは、大会前半に「ダメなアフリカ」の象徴となってしまったカメルーンの状況に浮き彫りにされている。「絶対勝つべき」と見ていた日本戦で負けたために、内部分裂、監督の選択への不満など、以前からあった問題が一気に膨張し、母国ではルグエン監督のシステムへの非難が爆発。ルグエンを褒めていたエトーまでが、監督が自分をセンターフォワードとして起用しないことへの疑問を公言し、2戦目の前にはカメルーンのスポーツ大臣が急きょ、南アに飛び、自ら選手、監督、協会スタッフに事情を聞くという事態が起きていた。

 フランスでは「大臣がルグエンに、選手のポジションを指示した」と報じていたが、カメルーン政府は「決断の全権は最後までルグエンの手にある」と言っている。しかし実際、エトーのサイド起用にあれだけ固執していたルグエンが、対デンマーク戦では彼をセンターの位置に戻し、またアレクサンドル・ソングを先発させことから見て、頑固なルグエンも、騒ぎを鎮めるために多少は妥協した可能性がある。そしてその結果、チームのプレーぶりは改善されてしまったのだから立つ瀬がない。デンマーク戦では、少なくともカメルーンの攻撃はより活発になり、何よりエトーがゴールを決めた。母国のスターが得点するというのは国民にとって非常に重要なことらしいのだ。

 ところで、カメルーンの状況はフランス代表のそれにやや似ている。というのも、カメルーンのチーム内に派閥があり、大会前からエゴの衝突が起きていたと言われているのだ。カメルーンが1勝もできずに敗退した後、スポーツ大臣のミッシェル・ゾアが、国会で代表チームの挫折の理由を報告しており、その中で彼は「チーム内で若手とベテランが対立し、一部の選手が監督の指示を無視していた」などの点を挙げ、「今回の代表チームの失敗は、内部の対立、自分の周りに才能ある選手がいることを受け入れない過剰なエゴを持ったある選手たちの嫉妬(しっと)心と憎しみ、チーム内のハーモニーの欠如に起因する」と結論付けていた。

ガーナだけが生き残った理由

 その中で、ガーナだけが生き残った。その第一の理由は、彼らが、自らの長所を生かしつつ戦略的規律を保つ、ということに成功していたからだろう。ガーナは、頻繁に7人の人数をかけてがっちり守り、ボールを奪うや速攻を仕掛けて、攻撃陣が持ち前の身体能力でぶっちぎるというシンプルな戦法を徹底して行使していた。特に米国戦での2点目はその真骨頂だった。アンドレ・アイェウが送ったロングパスを追って飛び出したギャンが、2人のDFを振り払いながら胸トラップすると、バランスを崩しながらもパワフルにシュート。追いかけた米国のセンターバックの1人、カルロス・ボカネグラが、ペナルティーエリアの入り口でギャンにチャージした後、追うのをあきらめたシーンが印象的だった。実はギャンとボカネグラは共にフランスのレンヌに所属するチームメート同士。クラブでの経験でギャンの加速力を知っていた彼は、追い抜かれた瞬間に自分には追いつけないと悟ったのである。

 手前みそだが、20歳のアイェウは、わたしが住むアルルのクラブ、アルル・アビニョンの選手で、昨シーズンには多くのチャンスを生み出し、クラブの1部リーグ昇格の立役者となっていた。といってもマルセイユからの期限付き移籍なので、来るシーズンには所属クラブに取り戻されてしまうだろうが、とにかく中田浩二がマルセイユにいたころから、15歳の若さでたまにプロの練習にも参加していたほどの有望株だったのだ。ちなみに彼の父アベディ・ペレは、93年にマルセイユの選手としてチャンピオンズリーグ(CL)で優勝した90年代の名選手。欧州で成功を収めた初のアフリカ人選手として名高い、ガーナ史上最大の偉人である。

 実際、ペレの成功に触発されて、ガーナは育成に力を入れ始め、今やアフリカでは最も育成システムが整った国と言われている。その証拠に、ガーナは09年のU−20W杯で、決勝でブラジルを下して優勝。そのユース代表のキャプテンだったのがアイェウだった。
 そしてこの若い世代の成長が、今回のガーナを大きく後押ししたのである。監督のミロバン・ライェバッツは、今年1月のアフリカネーションズカップの際に、U−20W杯のメンバー6人を招集することをためらわなかった。ガーナ最大のスターと言えば、チェルシーのマイケル・エシアンであり、故障のためこのエシアンがW杯行きを逃した時には、ガーナのチャンスを疑った者も多かったはず。しかし、幸か不幸か、アフリカネーションズカップでもエシアンがけがで、またほかの2人の大物であるスティーブン・アッピア(ボローニャ)、スレイ・ムンタリ(インテル)が不品行を理由に招集されず、彼らにはベテランの大物なしに戦う予行練習がばっちりできていたのだ。

 実際、今大会の試合のほとんどで、ムンタリとアッピアはぜいたくな交代要員であり、テレビ解説者は「CLで優勝したインテルの選手を使わないとは……」と首をかしげていた。近年の組織力重視の伝統に加え、アフリカネーションズカップからチームプレーを培った面子で、常に同じ方向に進んできた一貫性も、アフリカ勢にしては珍しいガーナの戦略的規律に一役かっていたに違いない。選手の多くが欧州でプレーしてはいるが、ムンタリら数人を除き、その多くの所属クラブは、ビッグクラブではない。それでもベスト8に至ったガーナのチームワークと若いエネルギーは、アフリカの未来を感じさせるものでもあった。

<了>

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著者プロフィール

東京生まれ、湘南育ち、南仏在住。1986年、フェリス女学院大学国文科卒業後、雑誌社でスポーツ専門の取材記者として働き始め、95年にオーストラリア・シドニー支局に赴任。この年から、毎夏はるばるイタリアやイングランドに出向き、オーストラリア仕込みのイタリア語とオージー英語を使って、サッカー選手のインタビューを始める。遠方から欧州サッカーを担当し続けた後、2003年に同社ヨーロッパ通信員となり、文学以外でフランスに興味がなかったもののフランスへ。マルセイユの試合にはもれなく足を運び取材している。

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