ファインダー越しのセナと日本GP ホンダカメラマンが明かす写真の記憶

田口浩次

88年ハンガリーGP 予選を迎えたときのセナは、感情が表に出ないどころか、周囲が静かになった気がしたという 【原富治雄】

 ホンダはF1復帰後、初めての日本GP(9月25〜27日)を迎える。マクラーレン・ホンダが鈴鹿を走るのは23年ぶりのこと。当時の日本はF1ブームに沸き、その中心にホンダ、そして伝説のドライバー、アイルトン・セナがいた。

 懐かしくも輝かしいあの時代。ファインダー越しに見つめていたのが、日本人F1フォトグラファーの第一人者、原富治雄さんだ。ホンダ契約カメラマンとして、マクラーレン・ホンダの黄金時代を追い続けてきた。日本に愛されたセナ、思い出の日本GP、そして今だから話せるエピソードも……。原さんが撮影した貴重な写真とともに、四半世紀前の記憶をたどりたい。

セナが気になっていた撮影方法

――原さんは、ホンダの第二期、マクラーレン・ホンダ時代から2009年代までF1を撮影されてきたわけですが、当時のことで印象深い思い出を教えてください。

 まずは誰もが知っているアイルトン・セナについて語りましょうか。よく、ドライバーが予選のときに目の色が変わる、なんて表現をされることがあると思います。有名なところではミカ・ハッキネンなんかはそう言われていました。でも、私が個人的にファインダー越しにのぞいた中では、そんな変化があるドライバーはほとんどいなかったと思います。多少の違いはありますけど。

 強いて言えば、ナイジェル・マンセルは弁慶みたいな顔になって、ギアが変わったような雰囲気はありましたけどね。セナは逆に静かでした。周囲の音がシーンと消えてしまうような感じで、殺気は感じるんだけど熱気ではなかった。この空気感は何なのだろう、って。だからこそ、セナを被写体として余計に撮りたくなる自分がいましたね。

――セナとは直接話すような機会はあったのでしょうか?

 私はジャーナリストじゃないから、そうしたインタビューのような接点はなかったです。それこそ、どのドライバーともなかった。中嶋悟さんとも、現役中はそうした機会はありませんでした。でも、セナとは別の接点がありました。1988年にホンダが発売した「VT250スパーダ」というバイクがあって、そのイメージキャラクターにセナが起用され、私が宣伝ポスター等の撮影を担当しました。そのとき、初めてセナと短い時間でしたが話しましたね。

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――しかし、セナのトールマンでのF1デビュー時点から、お互いに顔は当然認識していましたよね。

 いや、セナからすれば、数百人もいるカメラマンの1人という認識だったと思いますよ。しかし、その撮影の合間に、セナは私の撮影方法が気になっていて、聞きたいことがあると言い出しました。

――それは何が変わっていたのですか?

 当時、今よりもピットやガレージでドライバーとの距離が近く、当然誰もがドライバーを撮影するときに広角レンズなどで近づいて撮影していたわけです。でも、私の撮影スタイルは、数メートル離れたところの、まして人垣の間から、500ミリの超望遠レンズで撮影することが常でした。彼からすると、すごく不思議だったと同時に、何か狙われた感覚になって、すごく気になっていたと。「なんであんな遠くからのぞくんだ」と聞いてきました。今では、そうした撮影スタイルも普通ですが、当時は私だけでしたから。

 そして当時、私が出していた写真集を見せて、どういう写真が仕上がるのかを見せたところ、「ああ、こういうことなのか!」と納得してね。その中に、セナがロータス時代の初優勝のときにメカニックと抱き合っている写真があって、その写真の画角は彼が想像もしていないものだったようで、「ぜひともこの写真が欲しい」とまで言ってくれました。

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――カメラマン冥利に尽きますね。他のドライバーや、マクラーレン・ホンダ時代の日本GPにも思い出はありますか?

 他のドライバーでは、セナと別の意味でマンセルかな。彼は商売っ気が強いというか、ある種のイギリス人の典型でね。狭いピット内での撮影のときなど、たまに近づきすぎたりすると少々意地悪をするタイプだったので、あまり良い印象ではなかったです。それがあるとき、ホンダチームの人が「彼はホンダの契約カメラマンだよ」と言ったら、次の日から「おはよう、元気か?」って。それまで一度も向こうから話しかけるなんてなかったのに(笑)。その点では、セナは知り合った後も態度が変わらなくて、そこも私がセナにひかれた理由かもしれないですね。

忘れられない日本GPでの2つの接触

 日本GPの思い出としてはやはり、セナとアラン・プロストによる89年のシケインでの接触と、90年の1コーナーでの接触でしょう。89年のレースはコースに復帰したセナがトップでチェッカーを受けたけど、それが取り消しになってアレッサンドロ・ナニーニが優勝し、年間チャンピオンもプロストが獲得しました。私個人としては、あくまでもレーシングアクシデントだったと思ったけれど、なぜかレース後の雰囲気も、その後のゴタゴタ含め、何か別の力が働いた裁定のように感じましたね。そして90年の1コーナー手前、スタート直後のプロストとの接触、あれは前年度の状況とはまるで別の要因だったと私は思いますけど。

90年日本GP セナとプロストのレースはたった10秒程度で終わった。セナがヘルメットを取らなかったことが印象的だった 【原富治雄】

89年ブラジルGP 当時のセナとプロストは、お互いに弱い部分を見せることができない関係だったのだろう 【原富治雄】

――まったくの別物というと?

 あの1コーナーでの接触後、セナは先にコースを渡って、なぜかそこでプロストのことを待っていました。プロストはヘルメットを脱ぎ、1周遅れてコースを渡った。このとき、まだセナはヘルメットをかぶったまま。コース内でプロストが来るのを待っていて、一定の距離を保ったまま声をかけずに、彼らはピットに戻ってきた。

 これは私見ですが、あのとき、セナはプロストに対してヘルメットを外して目を向けることができない、でも彼に一言声をかけたい、何か深い感情があったんじゃないかと。セナ自身、鈴鹿のファンの前で、たった10秒程度で終わってしまって、自分がやるべき仕事ができなかったと後日言っていました。でも、あそこでは、感情が顔に出ているかもしれない、どうしてもヘルメットを脱ぐわけにはいかない。そうした部分も含め、セナに葛藤があったのだろうと、私の中ではそんな印象で残っています。

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