【浦和レッズ】“戻ってきた“漢が熱い!二度目の復帰となる荻原拓也への更なる期待

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【©URAWA REDS】

荻原拓也のプロデビューは鮮烈だった。

 浦和レッズジュニアユース、ユースで6年間育ち、トップ昇格を果たした2018年3月7日、アウェイのパロマ瑞穂スタジアムで行われた、YBCルヴァンカップグループステージ第1節・名古屋グランパス戦で先発。当時は4-3-3の左ウイング、攻撃的なポジションだった。

前半、挙げた大量4得点のうち2点が荻原だった。アカデミー出身のルーキーの鮮烈なデビューにサポーターは大いに沸いた。

 しかし、荻原がそこから浦和でレギュラーポジションを獲得するには至らなかった。1年目はカップ戦での先発はあったが、リーグではほぼ途中出場で8試合出場。2年目も出場数は伸びなかった。

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 3年目の2020年8月、出場機会を求めて当時J2のアルビレックス新潟に期限付き移籍した。新潟では半年でリーグ24試合という、浦和での2シーズン半を大きく上回る出場経験を積むことができた。

 そして翌2021年、曺 貴裁(チョウキジェ)監督率いる京都サンガF.C.に期限付き移籍先する。「チョウさんとやれるのを楽しみに、京都に行ったのを覚えています」と荻原は言う。

 京都での2年間は、自身が期待していた以上だった。1年目は公式戦40試合出場2得点の活躍でJ1昇格に貢献し、2年目は怪我もあって21試合の出場にとどまったが2得点をあげ、12年ぶりにJ1に復帰した京都が残留するために力を発揮した。

「本当に最高の環境でした。2年目は自分の籍が京都にあると思いながらやっていました。自分が京都で成長したことはもちろんですが、自分がチームを強くした感触もあります」と荻原は振り返った。

【©J.LEAGUE】

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 2023年、2年半ぶりに浦和へ復帰した荻原は、記者会見で「2年半の期限付き移籍中に自分が成長したところは」と問われ「試合を見てくれればわかります」と答えているが、その機会は多かった。リーグ28試合を含む公式戦53試合に出場。この年の公式戦60試合の約9割に出ており、その半数以上が先発だった。主戦場は左サイドバック。ユーティリティーな明本考浩(現OHルーヴェン=ベルギー)やパリ五輪日本代表候補の大畑歩夢(同)とポジションを争いながらこの数字なのだから完全に中心選手の一人だった。

 浦和に新人として加入、あるいはユースから昇格してプロになり、出場経験を積むために他クラブへ期限付き移籍する選手は多い。だが、その後復帰するケースは半数ほどで、復帰した選手も出場機会に恵まれず1〜2年の間に再度移籍していくという現実があった。

 浦和レッズ32年の歴史の中で、荻原は期限付き移籍から復帰した年に最も活躍した選手となった。今後、さらにチームの顔となっていくことが期待されていたが、年が明けた2024年1月12日、NKディナモ・ザグレブ(クロアチア)への期限付き移籍が発表され、ファン・サポーターを驚かせた。

「浦和レッズのアカデミーで育った選手として、チームの勝利に貢献するのは当然の恩返しですが、浦和レッズでの成長や経験を糧に海外で活躍できることを証明するのも恩返しだと思っています」という荻原らしいコメントを残している。

 そして2025年1月4日、荻原の浦和復帰が明らかになった。チームが始動する3日前の発表というのが、本人の葛藤を想像させる。

「1年前に移籍したときには契約が残っていたので、期限付きという形になりましたが、『絶対に戻らないだろう』とは思っていました。戻るとすればもっと影響力を持った状態で、そう、(原口)元気君みたいな形だろうなっていうふうにしか思っていませんでした」

 ただ浦和からは早くから復帰の打診があり、ディナモ・ザグレブとの契約更新がギリギリまではっきりしなかったこともあり、浦和復帰を決断した。それを促したのは、マチェイ スコルジャが監督として浦和に戻ってきていたことだった。

「2023シーズンが終わって監督とお別れするときに、またいつか一緒にやりたいという話をお互いにしました。本当に、この監督のためなら、と思える人の下でやれるのは普通のことではないと思うんです。
 浦和に戻るにあたって、チームがだいぶ厳しい状況だというのは聞いていましたが、具体的にはあまりわかりませんでした。その中でマチェイさんがいるということは確定している。それが一番帰りたいって思えた要因というか、安心して帰れた要因の一つであるかなと思っています」

 2020年に新潟へ期限付き移籍したときと、ディナモ・ザグレブでプレーした2024年とでは、選手としての立ち位置も違えば、荻原自身の心情も全く違う。

「2020年当時は、とにかく試合に出たいから、(外へ)出してくれとクラブにずっとお願いしていました。一方、クロアチアに行ったのは自分のステップアップ、それも二段飛ばしぐらいでステップアップする感覚でした」
 実際、荻原はディナモ・ザグレブで国内リーグのみならずUEFAチャンピオンズリーグにも3試合出場し、ヨーロッパの強豪との真剣勝負を経験してきた。

 移籍したときの気持ちが違えば、復帰したときの気持ちも違うはずだ。

「京都から戻ってきたときは、一戦力として見られていたと思います。そのときも熱烈な気持ちを伝えてもらえて帰ってきたんですけど、今シーズンはその比ではなかったです。チームは本当に自分のことを最大限評価してくれて、10月ぐらいからずっと話はしてくれていたので、帰る可能性があるだろうなっていう気持ちはずっと持っていました。その分、自分に対する期待、タスクは大きいでしょうね」

 荻原への期待。もちろん左サイドバックという戦力的な部分は大きい。だが、もう一つ、前回の復帰に際してはなかったもの。それはチームの精神的な支柱としてチームメートへの影響力を発揮して欲しいということだ。

 昨シーズンの浦和レッズは6月に酒井宏樹(現オークランドFC=オーストラリア)、岩尾憲(現徳島ヴォルティス)、アレクサンダー ショルツ(現アル・ワクラSC=カタール)、伊藤敦樹(現KAAヘント=ベルギー)といった、キャプテンマークを巻く選手が次々と移籍した。それがシーズン後半戦を苦しくした側面があることは否めない。

 それについて荻原はこう言う。

「リーダーシップという意味で言うと、そんなに減ったとは思っていません。2年前と比べてどっちが良い悪いじゃなくて、今の状態が良いかなと思っています。その中で一人ひとりが自立してチームの他のメンバーに良い影響を与えられる選手というのは、むしろ増えたなと思っています。
 良い影響を与えるという意味では、自分もやれることをやりたいし、元気君みたいにやっぱり本当にプロフェッショナルにやっていきたいなと思っています」

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 最後に、荻原が強調したいことがある。

「昔から攻撃的な選手と見られることが多いですし、マチェイさんも攻撃面をめちゃめちゃ期待してくれているんですが、評価してくれている人は『守備が良い』と言ってくれているし、自分もそう思っています。だから、そこをちゃんと見てもらえればと思います」

 一度目の浦和復帰では、ひと回りもふた回りも大きくなった荻原拓也を見せてくれた。二度目の復帰となった今シーズン、プレーはもちろん、荻原の振る舞いにも注目したい。


(取材・文/清尾 淳)
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著者プロフィール

1950年に中日本重工サッカー部として創部。1964年に三菱重工業サッカー部、1990年に三菱自動車工業サッカー部と名称を変え、1991年にJリーグ正会員に。浦和レッドダイヤモンズの名前で、1993年に開幕したJリーグに参戦した。チーム名はダイヤモンドが持つ最高の輝き、固い結束力をイメージし、クラブカラーのレッドと組み合わせたもの。2001年5月にホームタウンが「さいたま市」となったが、それまでの「浦和市」の名称をそのまま使用している。エンブレムには県花のサクラソウ、県サッカー発祥の象徴である鳳翔閣、菱形があしらわれている。

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