【道標 Vol.3】宮下 哲朗

東芝ブレイブルーパス東京
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【道標 Vol.3】宮下 哲朗

【東芝ブレイブルーパス東京】

東芝ブレイブルーパス東京では、ファンの皆さまにクラブの歴史・カルチャーをより知っていただくために、ライターの田村一博さんにご協力いただき、様々なレジェンドOBにインタビューを実施していきます。


宮下哲朗の4文字を見て「ヤジン」と呟く人は40代以上のラグビーファンに違いない。
1995年の4月、関東学院大に入学してすぐだった。当時ラグビー部を率いていた春口廣監督が野生的な風貌の1年生を野人と呼んで、それ以来、この人はそのニックネームで知られる。

ラグビーをあまり知らない知人から言われたことがある。
「私からしたら、ラグビーをしている人はすべて野人だと感じるのに、どうして君ばかり、そう呼ばれるのだろう」

目の前の獲物に迷わず襲いかかるからだ。相手を眼光鋭く見つめる。睨まれた方はたまったものではない。
一方で、そんな独特の雰囲気が味方にとっては頼りになった。

関東学院大の3年時に大学選手権初優勝を果たし、4年時は連覇を達成した(1997年度、1998年度)。
一度は電力会社に就職も楕円球に没頭する世界が忘れられず、1年半後に東芝へ転職してラグビーを続けた。

大学4年時、日本選手権の1回戦で東芝府中(当時)と戦い、27-92の大差をつけられて敗れた。その時に残った記憶がある。
「こんなにやり切る、走り切る大人たちがいるんだ、と思いました。自分もこういう大人になりたい。そんな集団の中に身を置きたいな、と思いました」

いったんは決まっていた会社で働くも、その思いを忘れなかったから道は拓いた。
大学卒業後は、東京電力でラグビーを続けていた。

2000年の7月、関東選抜に選ばれてオーストラリア遠征へ向かう。そのチームを率いていたのが直前まで東芝府中の指揮を執っていた向井昭吾監督。くすぶっていた思いを伝えたら縁ができて、願いが叶った。
「(大学)同期の立川(剛士)がいたこともあり、どうしても一緒にプレーしたかった」

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東芝マンとなった後、多くの人が覚えているのがトップリーグを制した2004年度シーズン、同リーグ上位8チームで争われたマイクロソフトカップのファイナルだ。その決勝の相手はヤマハ発動機ジュビロだった。



後半38分頃だった。15-6とリードしていたが、自陣深く攻め込まれていた。

トライを許しても逆転はなかったとはいえ、残り時間がある中で迫られたら結末がどうなっていたか分からない。



途中出場だった野人と呼ばれるその人は、ゴールに迫る193センチ、105キロの巨漢、コリ・セワンブの膝下に刺さり、まったく前進を許さなかった。それが、直後のボール奪取につながった。



その後、FB立川が決定的なトライを奪い、チームは20-6で頂上決戦を制した。試合後、薫田真広監督は「きょうのMVPは宮下」と言い、立川も「あのタックルが一番しびれた」。

頭を強打した本人は「タックルのシーンは何も覚えていないので、試合後に記者さんたちが集まってきたので驚きました」と回顧する。



多くの人の記憶に刻まれているそんなシーンの主役なのに、本人は、東芝ラグビーを生きた中でよく覚えているのは「日常の練習のことですね」と素っ気ない。



思い焦がれていた場所に足を踏み入れてすぐに、「東芝府中のラグビー、その風土がチームに根付いている」と感じた。

「みんなで(日々の練習を)愚直にやり切る文化がありました」



当時のトレーニングの過酷さを「練習があまりにも痛いから試合のほうがラクでした」と思い出す。

「区切られた狭いところで、やばい(くらい激しい)人たちと3人対4人とかでぶつかり合う。試合だとスペースがあるからホッとしていました」

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薫田監督体制(2002年度〜)になってすぐの夏、網走合宿の激しさは、いまの仲間内で語り草となっている。

「夜のミーティングに誰もたどり着けなかった。練習がきつすぎて、ちょっとした動きで体のあちこちがつるんです。あちこちの部屋から悲鳴が聞こえていました。ミーティング会場に行くと、まだ3人しかいないとかありました」



そんな中に身を置いて、毎日やり切って、終われば杯を酌み交わしながら明日への活力を得る。

「もちろん、勝ち負けも大事ですが、自分としては、そういう集団の中にいること自体が幸せでした。仲間たちと練習や試合で出し切って、酒を呑んだ時代は本当に充実していました。一生、その当時の話をして楽しくしています。勝った、負けたより、日常こういう目に遭ったよね、という話で盛り上がる。それが財産です」

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職場の人たちも、壮行会やら飲み会をよく開いてくれた。

「そういう場でも思いを伝えていました。自分はグラウンドのことだけでなく、こういう文化も含めて東芝を選び、入れてもらい、喜びを感じています。皆さんの応援をいつも力にしています、と」



ブレイブルーパスがリーグワンを制し、久しぶりに国内王者となった2023-24年シーズンは、ラグビー部のOBたちと多くの試合を観戦した。

1年間の労をねぎらう会にも出席した。そこで、現役選手たちと触れ合う機会があった。



感心した。

「引退やチームを離れる選手に、関わってきたメンバーからスピーチを贈る時間がありました。いろんな選手が話しました。みんなメッセージ力、コミュニケーション能力がすぐれていました。その選手がどういう男で、チームにこういう力を与えてくれていたと、いろんなことが伝わってきた。チーム内で思いを伝え合う文化、環境があるんだろうな、と感じました」



「僕らの頃はあんなに洗練されていませんでした。酒を呑んで通じ合うのはあったけど、あんなに正確に感情を伝え合うことはできていなかったと思います」と感じ、「東芝の魂は残っている」と思った。

「そうだからあれだけのラグビーができるんですね」

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神奈川・希望ヶ丘高校出身の48歳。昔話が東芝ラグビーの根底にあるものを伝えてくれる。

いかつい風貌からは想像できないが、小学生の時に習っていたエレクトーンが得意。仲間たちの結婚披露宴でも何度も演奏してきた。



「寮に住んでいた選手たちは日曜の朝、飲みすぎた大野(均/日本代表キャップ98)がトイレで戻している音で目が覚めたあと、エレクトーンの演奏で癒されていました」



2009年度まで現役としてプレー。引退後はそんな想い出の場で、後輩たちを対象に体幹チューニングの施術、トレーニングを行った。

母校・関東学院大でも同様の活動やタックルを伝えた時期もある。



後輩思い。東芝エネルギーシステムズ株式会社の電力部門、資材部に勤務し、近くのコンビニで後輩に会えば「好きなもの食っていいぞ」とさりげなくサポートする。

楽しませてくれた。ささやかなお礼だ。



「それくらいしかできませんから。(リーグワンの)決勝には5万人以上が集まったでしょう(5万6486人)。生きているうちに、そんな光景が見られるとは。OBたちも、盛り上がりました」



 20数年前、このチームに誘(いざな)われた者として願う。これからも、「人の心を動かし、導くような存在であり続けてほしいですね」。





(文中敬称略)
(ライター:田村 一博)

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次のホストゲームは、第8節:2/15(土)14:05より、秩父宮ラグビー場にて東京サンゴリアスと対戦します。
14:05キックオフとなりますので、ぜひ会場で皆様の熱いご声援をよろしくお願いします!!
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著者プロフィール

東芝ブレイブルーパス東京はジャパンラグビーリーグワン(Division1)に所属するラグビークラブです。日本代表のリーチマイケル選手や德永祥尭選手が在籍し日本ラグビーの強化に直接つなげることと同時に、東京都、府中市、調布市、三鷹市をホストエリアとして活動し、地域と共に歩み社会へ貢献し、日本ラグビーの更なる発展、価値向上に寄与して参ります。

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